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モーム66:老年時代


(大意)
完全な人生、その完全なパターンには、若い時代や成熟の時代とともに老年時代が必要である。

朝の美しさ、日中の輝かしさは素晴らしいものである。だからといって、静かな夕方を追い出そうとカーテンを閉めて照明を煌々とつけるのは、愚かな人間のやることである。

老年時代にはそれ自身の喜びがある。若者時代の喜びとはちがうが、それに劣るものではない。
(サミングアップ 第73章)

For the complete life, the perfect pattern, includes old age as well as youth and maturity. The beauty of the morning and the radiance of noon are good, but it would be a very silly person who drew the curtains and turn on the right in order to shut out the tranquility of the evening. Old age has its pleasures, which, though different, are not less than the pleasures of youth.
(The Summing Up, ch.73, p.285)




このエントリーのタグ: 引用句 Maugham The_Summing_Up

金子光晴11:女の横広がりの共通点


どこのくに、どこの人種でも、女には女の横ひろがりの共通点があり、端布や、安うり商品の前では、人種を越えた酷似した顔つきで、我勝ちに人を押しわけて、がつがつとむさぼりつく、おなじあさましさの様相をあらわす。そして、じぶんでさがしだし、選りだした品を抱いたまま、もはやそれを元に戻すことができなくなり、みすみす欲望に敗けて、注意ぶかくあるべきことも忘れ、人ごみにまぎれて立去ろうとする、そんな情景を僕は、日本でもみなれていたし、上海の永安公司、新新公司、シンガポールの広場や、その他爪哇のバッサルでも例外なく、女ごころのやさしさの裏返しとして、心密かに彼女たちの成功に手をうち、喝采して顛末をみてきたものだ。
(ねむれ巴里 p.188-189)





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金子光晴10:露店通りの果て


このデパートの外通りは、ネクタイとかシャツ類などの日用品から、擬いの宝石指環、琺瑯の鍋や首飾りまで、手当り次第なものが半値以下でおが屑のなかにならべてある露店通りであり、その果ての館に、五フラン女郎が、裸で、汚れタオル一枚ずつもって、十人ぐらいうようよとしているのが外からよくみえるようになっていた。どの女も骨骼が崩れ、四角い尻の下から飴ねじのようなねじれた足がついて、赤いすり切れたような皮膚が、女の人生の荒廃のはてのそこらに滞った空気まで、粒立ちそそくれ立たせたうえに、熱ばみただれさせ、あたりをどんよりと濁ったものにしていた。
(ねむれ巴里 p.188)





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モーム65:1920年代


(大意)
わたしが青年時代を過ごした1920年代は、中壮年のための世界だった。若さからはできるだけ早く抜け出し、成熟すべきだと考えられていた。
(サミングアップ 第73章)

The world of my twenties was a middle-aged world, and youth was something to be got through as quickly as possible so that maturity might be reached.
(The Summing Up, ch.73, p.282)





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金子光晴09:女持主


その女持主は、ペルシャ人で、東洋風な、牛乳の入ったうつくしい肌色をもった、派手な顔立ちの女だった。じぶんのうつくしさに自信のある女は、やさしくていいものだ。
(ねむれ巴里 p.146)




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金子光晴08:パリ


いや、そういう馴々しさでひきつけるのがパリのかまととの手練女のような媚かもしれない。この街は、ふしぎな街で、くらいモスコウから、霧のニコスたち(スコットランド人)の住む国から、アビシニアから、テヘランから、あつまってくる若者たちを囚虜にし、その若者たちの老年になる時まで、おもいでで心をうずかせつづけるながい歴史をもっている、すこしおもいあがった、すこし蓮っ葉な、でも、はなやかでいい香いのする薔薇の肌の、いつも小声で鼻唄をうたっている、かあいいおしゃまな町娘とくらしているような、それで、月日もうかうかと、浮足立ってしまいそうなところである。正直言って、僕は、ここでうまれて、ここで死んで満足しきっている人間たちの仲間にはなりたくない。金でふちとった調度類と、天使と雲のなかの裸女が寝ている画の画いてある、程のよい、オルゴールや、時計のなかであそんでいた、髪の毛に天花粉を塗った、腰から下に蝙蝠傘のようにスカートをひらいた貴婦人たちの格好は、昔、花屋敷のあやつり人形としかおもわれない。パリの人たちは、いつになっても、コーヒーで黒いうんこをしながら、すこし汚れのういた大きな鉢のなかの金魚のようにひらひら生きているふしぎな生き物である。長夜の夢からまださめきらないのだ。第一あのP音の多い、人を茶にしたとぼけたフランス語を使いながら、あけくれ女の尻から眼をはなさない男たちや、男の眼くすぐられている自覚なしではいられない女たちが、ふわりふわりとただよっているこのフランスの都は、立止まって考えるといらいらする町だ。頭を冷やしてながめれば、この土地は、どっちをむいても、むごい計算づくめなのだ。リベルテも、エガリテも、みんなくわせもので、日々に、月々に、世界のおのぼりさんをあつめる新しい手品に捺す古スタンプのようなものだ。騙されているのは、フランス人じしんもおなしことで、だましている張本は、トゥル・エッフェルや、シャンゼリゼや、サクレ・キュールや、セーヌ河で、そんな二束三文な玩具を、観光客は、目から心にしまって、じぶんもいっしょの世界に生きている一人だったと安心するのである。
(ねむれ巴里 p.69-70)





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金子光晴07:バルビゾンの森


森の中に、木を切倒す斧の音が丁々ときこえ、その音があっちこっちに反響した。冬の森が語る冷厳な相貌が、フランス人のなかに一本通って、それがフランス人の知性となってゆるがないのではないかという実感を、手から手に渡されたような気がして僕は、この森でいくばくかの日を過したことが、無駄ではなかったとおもった。森のなかの大気は乾ききって、規矩でさしたような、ジオメトリックな、その縦の並行線の無限の連続は、しかし、なにをこの僕に課そうとしているのであるか、それは、おそらくいたいほど冷静な思索の序列となって残りえなくても、その爽快な雰囲気が僕のなかにゆれたなびくものとなって、そのあと十年、第二次世界戦争のときの僕の決意に廓然としたある影響を与えてくれたものと考えていいだろう。
(ねむれ巴里 p.67)




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金子光晴06:男が一人前になるのは


「男が一人前になるのは、突きまぜて百人の女が一人の女にみえはじめるときである」と、誰かが言っていた。
(ねむれ巴里 p.43)





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金子光晴05:女


好き嫌いの激しい男は不幸であるが、よいものねだりをする女のほうは、魅惑的である。
(ねむれ巴里 p.43)





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金子光晴04:女の感情生活


女の感情生活には、米欠けや、薄手で脆い部分があって、――もしくは、時間的に、侵蝕に耐えられない隙間がものを言って、ながいあいだの嫌悪が、一朝にくずれ去ることがしばしばある。
(ねむれ巴里 p.35)





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金子光晴03:熱帯


南の奥地は、ゴーギャンの絵などにあくがれて想像するような色彩の天国でも、豊壌な花園でもない。それは、過剰な生物どもの生殖と、その息ぜわしさでしずまり返っている、どんよりとくらい、存在そのものが悪意にみちた、大寂寥の世界であって、文字通り、百越から南は荒服の蛮界である。
(ねむれ巴里 p.13)





このエントリーのタグ: 金子光晴 引用句 ねむれ巴里

キング02:無題


Are you trying to be a wise guy?
(Night Shift, The Boogyman, p.162)

「おりこうさんぶってんじゃねえよ」
(Night Shift 「子取り鬼」)





このエントリーのタグ: 引用句 Stephen_King Night_Shift

キング01:書くこと


(大意)
この短編集に収められた作品のどれも、お金のために書いたわけではない……わたしは偉大な芸術家というわけではないけれども、つねに、書かなければならないという強迫観念につきまとわれている。
(Night Shift 序言)

I didn’t write any of the stories with follow for money…… am not a great artist, but I have always felt impelled to write.
(Night Shift, Forward p.9)




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Night Shift

Stephen King
1978
Hodder & Stoughton
P488


本書のlexile指数は770L。

Lexile指数というのは、アメリカのMetaMetrics®社が開発した「読解力」および「文章の難易度」を示す指標で、単語数や難易度、構文の複雑さなどを基づいて、その本の指数が示され、読者のレベルに適した本の選択を助けるもの。アメリカの学校で広く用いられているらしい。
最低が200Lで最高は1700L。

アメリカの学年別スコアは以下の通り。
1年生 (-300L)
2年生 (140L-500L)
3年生 (330L-700L)
4年生 (445L-810L)
5年生 (565L-910L)
6年生 (665L-1000L)

ここから中学生
7年生 (735L-1065L)
8年生 (805L-1100L)
9年生 (855L-1165L)

ここから高校生
10年生 (905L-1195L)
11・12年生 (940L-1210L)

これまで読んだStephen Kingの本では、
The Long Walk 690L
The Running Man 700L
The Gunslinger 750L

まあ、だいたい小学校高学年から中学校あたりの読解力で読める本を読んでいることになるわけですね。

ただ、この数字は意外とあてにならない気がする。
単語や構文と、内容のレベルはまた別だからだろうと思う。
800Lと1000Lとか、数字が100や200ぐらい違っても、あまり差がないように感じられる。
他のジャンルに較べると、小説系は低い数字が出る傾向があるという人もいる。

それで本書だが、短編集である。
日本語訳版では『深夜勤務』、『トウモロコシ畑の子供たち』の二冊に分けて出版されている。
ホラーが中心。

「キャリー」でデビューを果たしたのが1974年だから、それ以前の生活苦に喘ぎながら書き続けていた時代の作品が数多く収められている。全部で20編。

●Jerusalem's Lot
 呪われた村<ジェルサレムズ・ロット>
 未発表作品 ★★★
 アメリカ植民地の初期時代に題材をとったオーソドックスなつくりのホラー作品。突飛な展開はないけれども、材料と道具は揃っていて、すぐにでもテレビドラマになりそうな作品。

●Graveyard Shift
 地下室の悪夢
 1970年 ★★★
 底辺労働者の主人公による地下倉庫の掃除から物語が展開する。作者の仕事経験が雰囲気に濃厚に出ているように思う。

●Night Surf
 波が砕ける夜の海辺で
 1969年 ★★★
 破滅SFのワンシーン。静かな作品。

●I Am the Doorway
 やつらの出入口
 1971年 ★★★
 SF風味が入ったホラー。

●The Mangler
 人間圧搾機
 1972年 ★★★
 クリーニング工場を舞台に、かなりグロいシーンが出てくる。

●The Boogeyman
 子取り鬼
 1973年 ★★★
 心理サスペンス的な要素が強い。アメリカの無知で粗暴な男の描き方が印象的。

●Gray Matter
 灰色のかたまり
 1973年 ★★★
 これはなんでしょうね。キングは一時アルコール中毒を患っていたそうだが、それに対する不安と嫌悪が投影されているようだ。

●Battleground
 戦場
 1972年 ★★
 誰でもすぐ思いつきそうな話だが、うまくまとめられている。

●Trucks
 トラック
 1973年 ★★★
 これはなかなか。テレビ映えがする作品だと思う。

●Sometimes They Come Back
 やつらはときどき帰ってくる
 1974年 ★★★
 スティーブン・キング・スタイルとはこういう作品をいうのだろうか。幽霊と恐怖とバイオレンスがミックスされた作品。

●Strawberry Spring
 バネ足ジャック
 1968年 ★★★
 そうか、こういう終わり方をするのか。気づく人はかなり早くから気が付くのだろうが、ホラー小説はあまり読んでないので、最後まで気がつかなかった。

●The Ledge
 超高層ビルの恐怖
 1976年 ★★★
 マンガ「アカギ」の一場面みたいな物語。キャリーでデビューしてから2年後。ここらへんになると手慣れたものですね。

●The Lawnmower Man
 芝刈り機の男
 1975 ★★★
 短編映画になっているらしい。でもこの話のとおりに映像化したら、笑ってしまうと思うけどな。

●Quitters, Inc.
 禁煙挫折者救済有限会社
 未発表作品 ★★★★★
 これは素晴らしい。どうしたらこういう話を思いつくんだろう。禁煙絶対成功間違いなしの解決策が描かれている。ただし、夫婦仲が良い場合に限る。

●I Know What You Need September
 キャンパスの悪夢
 1976年 ★★★
 アメリカの女子大生の大学生活の一端が描かれる。といっても作者は男なので、どこまでリアリティがるのかわからないけれども。

●Children of the Corn
 トウモロコシ畑の子供たち
 1977年 ★★
 私的には、あんまりこういうのは、ピンとこないな。

●The Last Rung on the Ladder
 死のスワンダイヴ 未発表作品
 ★★★★
 ホラー作品というより、ふつうの文芸作品で通ると思うのだが、まだ無名だったので、こういう作品は発表の場がなかったのかもしれない。

●The Man Who Loved Flowers
 花を愛した男
  1977年 ★★
 スタイルを工夫した詩的ホラーとでもいうべき作品。成功しているのかな?

●One for the Road
 <ジェルサレムズ・ロット>の怪
 1977年 ★★★
 呪われた土地のミステリー。吹雪の中の対決シーンが印象的。

●The Woman in the Room
  312号室の女 
 未発表 ★★★
 ホラーの要素なく、日本だったら、文芸雑誌に載ってもおかしくないような気がする。

短編集というのは、ひとつひとつの物語の背景が違うので、長編小説のようにいったん読みはじめたらぐんぐん進んでいけるのとはとちがって、一個一個シチュエーションを理解しなければならくて、それだけ緊張感を強いられるので、英語で読むのはなかなかつらい。

なので、短編集を原書で読むことは少ないのだが、この本は読みやすかった。
Lexileが低いせいかもしれないが、キングの作家としての腕によるところが大きいのだろう。




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モーム64:悪の存在とスピノザの言葉

(大意)
悪の存在については、説明することができない。宇宙の秩序を構成する要素の一つとみるしかない。無視するのは子供じみているが、嘆き悲しんでも意味がない。

スピノザは、同情はめめしい行為だといった。この警句は優しく質実な精神を持つこの哲学者の言葉にしては、粗雑すぎるように思える。

変えることができないことがらに強い思い入れをしても、感情の浪費にしかならないと言いたかったのではなかろうか。
(サミングアップ 第73章)

There is no explanation for evil. It must be looked upon as a necessary part of the order of the universe. To ignore it is childish; to bewail it senseless. Spinoza called pity womanish; the epithet has a harsh sound on the lips of that tender and austere spirit. I suppose he thought that it was but waste of emotion to feel strongly about what you could not alter.
(The Summing Up, ch.73, p.281)





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モーム63:ペシミズムと想像力

(大意)
過剰なペシミズムは、以下のようにして産み出される。すなわち、自分がその場にいたら感じるにちがいない感情を、他の人々も同じように感じるはずだと考えることによって。それは小説がもたらす弊害のひとつである。

小説家は自分自身の世界から一般的な世界を作り出す。キャラクターに感受性、考える力、感情を与える。もちろんそれは彼独自のものである。

多くの人々は想像力というものをほとんど持たないし、創作上の人物にとっては耐えがたいと思われる環境から、それほど害を受けているとは考えていない。
(サミングアップ 第73章)

Much pessimism is caused by ascribing to others the feelings you would feel if you were in their place. It is this (among much else) that makes novels so false. The novelist constructs a public world out of his own private world and gives to the characters of his fancy a sensitiveness, a power of reflection and an emotional capacity, which are peculiar to himself. Most people have little imagination, and they do not suffer from circumstances that to the imaginative would be unbearable.
(The Summing Up, ch.73, p.279)





J2 第37節 アビスパ 1-1 大分

AWAY
大分銀行ドーム

40分 0-1 三平(大分)
52分 1-1 ウォン

逆転試合が少ないアビスパだから、先制されると苦しい。
だというのに、前半は攻められっぱなし。
案の定、持ちこたえられずに失点。

後半なんか追いつくものの、勝点1どまり。

ウェリントンを後半から投入するゲームが続いているが、戦略としてどうなんでしょう。

良いとも悪いともいいかねるが、すくなくとも、先制されてしまうというのは、ゲームプランには入っていなかいのではないか。

勝点3が必要なので、引き分けというのなあ。

3位長崎、4位名古屋が勝ったので、勝点差はそれぞれ1、3に縮まった。

次節はその長崎と名古屋が対戦。

両者引き分けで、アビスパが千葉に勝つというのが理想。

はてどうなるか。

これまで、終盤戦に急追することはあっても、下から追いかけられるという経験がまったくなかったので、どうも居心地が悪い。上位争いをやっている楽しさよりも、我慢する苦しさのほうが大きいように感じられる。

こういうのにも慣れないといけないんだろうな。
強くなるのもなかなか大変。

モーム62:芸術家のエゴイズム


(大意)
芸術家のエゴイズムには際限がない。また、そうあるべきである。仕事の性格上、かれは唯我論者である。世界はかれが創造の力をふるうためだけに存在する。

かれは一部分しか生活にかかわっていない。人々が普通感じるであろう感情をまるごと感じることは決してない。というのも、そうあるのが当然の場面であっても、登場人物であるとともに観察者であるからである。だから、しばしば非情にうつる。

女性は鋭敏な感覚によって、かれを警戒する。魅力は感じるが、彼女らが望む完全な統御は難しく、その手からすり抜けていくことを知っているから。恋愛の大家であるゲーテは、愛人の腕の中で詩を着想し、彼女の背中を指先でリズムをとりながら調子を整えていったものである。

芸術家と暮らすのは大変である。芸術家は自分の創造的な熱意に対してまったく誠実であるが、そのことすら茶化そうとする第三者が同時に存在している。芸術家はまったくあてにならない。
(サミングアップ 第61章)

The artist’s egoism is outrageous: it must be; he is by nature a solipsist and the world exists only for him to exercise upon it his powers of creation. He partakes of life only with part of him and never feels the common emotions of men with his whole being, for however urgent the necessity he is an observer as well as an actor. It often makes him seem heartless. Women with their shrewd sense are on their guard against him; they are attracted by him, but instinctively feel that they can never completely dominate him, which is their desire, for they know that somehow he escapes them. Has not Goethe, that great lover, himself told us how he composed verses in the arms of his beloved and with singing fingers softly tapped the beat of his hexameters on her shapely back? The artist is ill to live with. He can be perfectly sincere in his creative emotion, and yet there is someone else within him who is capable of cocking a snook at its exercise. He is not dependable.
(The Summing Up, ch.61, p.227)





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モーム61:批評家と伝統

(大意)
批評家は伝統を基盤としなければならない。なぜならば伝統とは、その国の文学の特徴を表現したものであるからである。その発展の方向にそってそれをさらに進化させるために全力を尽くさなければならない。ただし伝統は導き役であって拘束服ではない。

He must support himself on tradition, for tradition is the expression of the inevitable idiosyncrasies of a nation’s literature, but he must do everything he can to encourage its development in its natural direction. Tradition is a guide and not a jailer.
(The Summing Up, ch.60, p.223)





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The Summing Up

W. Somerset Maugham
1938
Vintage Books
p305


サマセット・モームの「サミングアップ」。

昔は「要約すると」というタイトルで出ていたので、そちらのほうがなじみが深い。といって中身を知っていたわけではなく、読むのは今回が初めてである。

昔は大学受験で、この本の英文が良く出ると言われていて、それでタイトルを知っていたわけであるが、たしかに、そんなに凝った英文ではないものの、しかし、そんなに易しくもない。

私の場合は辞書を引き引きだからいいけれども、試験でこんな文章を出されて、短い制限時間のなかで答えろとなると、さすがにつらいだろうなと思う。そう考えると、大学受験の英語のレベルは相当高いと思う。

たとえば次のような文章は、いくつかの単語は注がいるだろうけれども、そこまで難しい単語は使っていないし、ややこしい文法もない。

And yet, though I have read so much, I am a bad reader. I read slowly and I am a poor skipper. I find it difficult to leave a book, however bad and however much it bores me, unfinished. I could count on my fingers the number of books that I have not read from cover to cover. On the other hand there are few books that I have read twice. I know very well that there are many of which I cannot get the full value on a single reading, but in that they have given me all I was capable of getting at the time, and this, though I may forget their details, remains a permanent enrichment. I know people who read the same book over and over again. It can only be that they read with their eyes and not with their sensibility. It is a mechanical exercise like the Tibetan’s turning of a praying-wheel. It is doubtless a harmless occupation, but they are wrong if they think it an intelligent one.
(The Summing Up, ch.25, p.89)

(試訳)
わたしはたくさん本を読むけれども、悪い読み手である。わたしは読むのが遅い。めったに飛ばし読みしない。どれだけひどく、どれだけ退屈な本であろうと、読み通さずにはいられない。最後まで読まなかった本は十指に満たない。

一方、二回読んだ本はほとんどない。一回読んだだけではその価値を十分理解できない本がたくさんあることはよくわかっているけれども、そのときわたしが得ることができるものを与えてくれたのであり、細かいところは忘れてしまうかもしれないが、わたしの中に永続的な豊かさを残してくれているのである。

同じ本を何回も何回も読む人々がいることは知っている。それが可能なのは、感受性をもちいてではなく、眼だけで読んでいるからである。それは機械的な運動であって、チベット人がマニ車を回すのとなんら変わりがない。無害な活動であることに疑いないが、知的な作業だと考えるのは間違いである。
(サミング・アップ 第25章)

マニ車:チベット仏教で用いられる仏具。内部に教文が納められており、回転させた数だけ経を唱えるのと同じ功徳があるとされている。(wikipediaより)


しかしこういう文章は、娯楽として読む分にはいいけれども、試験で読むとなると頭が痛くなるだろうな。文章・文法はそう難しくはないとしても、なんかややこしいことを言っているし。

そもそも、大文豪モームの意見とはといえども、再読に関するこんな見解にはまず同意できない。かれには、「学まなびて時に之を習う。またよろこばしからずや」という孔子の言葉を教えてあげよう(笑)。

最近の受験英語には、「サミングアップ」は使われなくなったようである。文学趣味が強すぎて、実用的な英語が求められる今の時代向きではないからだろう。大学生でも英文科の学生でもなければ読むような本ではないし、本書を読んでTOEICの点数が上がるとも思えないので、それももっともである。(使われている単語の種類が違う)。

わたし自身は、もっとモームの読書歴とか、ほかの作品や作家の評がたくさん書いてあるのかと思ったが、意外とそれほどでもなかった。

60歳になったかれが、自分の人生を振り返り、人生や芸術やさまざまな物事に対して、自分の考えを述べた本。

わたしとしては非常に面白かったので、抜き書き集を作ってみた。
暇な人は覗いてみてください。(翻訳は保証の限りではありません)




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モーム60:評価


(大意)
わたしは20代では批評家に残酷だと言われ、30代では軽佻浮薄と言われ、40代では冷笑的と言われ、50代では有能と言われ、60代に入ったいまは皮相的と言われている。
(サミングアップ 第60章)

In my twenties the critics said I was brutal, in my thirties they said I was flippant, in my forties they said I was cynical, in my fifties they said I was competent, and now in my sixties they say I am superficial.
(The Summing Up, ch.60, p.219)





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モーム59:プロットの効用


(大意)
多くの人が気がついていないもののひとつに物語の筋(プロット)の効用がある。プロットは読者の関心を引っ張っていく糸である。フィクションでもっとも重要なものである。

というのは読者をページからページへと運んでいくのは、関心の導線によってであり、意図する心的状態に読者を導くのもこの導線によってであるからである。

作者はいつもいかさまのサイコロを振っているのだが、読者にそれを気づかせてはならない。筋立てを巧みに工夫することによって、読者の関心をつなぎとめることができるし、それを強いていることを悟らせないでいることができる。

わたしは小説の技術論を書いているわけではないので、この目的を達成するために作家が用いているさまざまな手法については触れない。しかし関心の導線がどれだけ有効で、それを無視することがどれだけ有害かは、ジェイン・オースティンの「分別と多感」とフローベールの「感情教育」に明確に示されている。

ジェイン・オースティンの物語は、単純だけれども展開に沿って読者をしっかりつかんで離さないので、長女エリナーがどれだけ堅苦しく、次女マリアンがどれだけ愚かで、三人の男がどれだけ生気のないでくの坊であるかを思い出す暇がない。

一方、フローベールは、厳密な客観性を狙ってのことであるが、読者の関心をほとんど無視して、登場人物の運命にまったく無関心なので、非常に読みにくくてしかたがない。これだけたくさんのメリットがあって、印象がこれだけ薄い作品というのも、ほかに思い当たらないほどである。
(サミングアップ 第59章)

The chief use of a plot is one that many people do not seem to have noticed. It is a line to direct the reader’s interest. That is possibly the most important thing in fiction, for it is by direction of interest that the author carries the reader along form page to page, and it is by direction of interest that he induces in him the mood he desires. The author always loads his dice, but he must never let the reader see that he has done so, and by the manipulation of his plot he can engage the reader’s attention so that he does not perceive what violence has been done him. I am not writing a technical treatise on the novel, so I need not enumerate the various devices that novelists have used to achieve this. But how efficacious this direction of interest may be and how injurious its neglect is well shown in Sense and Sensibility and in L’Education Sentimentale. Jane Austen leads the reader so firmly along the line of the simple story that he does not stop to reflect that Elinor is a prig, Marianne a fool, and the three men lifeless dummies. Flaubert, aiming at a rigid objectivity, directs the reader’s interest so little that he is perfectly indifferent to the fortunes of the various characters. This makes the novel very difficult to read. I cannot think of another that has so many merits and leaves so shadowy an impression.
(The Summing Up, ch.59, p.218-219)





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モーム58:観光


わたしはあまり観光をしたことがない。
(サミングアップ 第55章)

I have never been much of a sight-seer.
(The Summing Up, ch.55, p.200)




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モーム57:旅行先で


わたしは場所や人々の詳細や、そこから思い浮かぶストーリーをノートに何冊も書き込んだ。
(サミングアップ 第55章)

I filled note-books with descriptions of places and persons and the stories they suggested.
(The Summing Up, ch.5
5, p.199)




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モーム56:作家と一般人


(大意)
困難、絶望、そしておそらくは貧窮、作家という職業に伴う不利益や危険は、大きな利点によって相殺される。すべてを取るに足らないものにする。その利点とは精神の自由である。

作家にとって人生とは悲劇であり、その創造の才によって、アリストテレスが芸術の目的としたカタルシス――恐れと憐みによる精神の浄化――を獲得する。

罪、愚行、降りかかる不幸、報われない愛、肉体的な欠損、病気、窮乏、失われた希望、悲嘆、屈辱、それらすべては創造の力によって素材とされ、書くことによって克服される。

通りでみかけた人物の顔から文明世界を揺るがす戦争まで、バラの香りから友人の死まで、すべては創造の碾き臼にかけられる。節に、歌に、物語に変換できないものはなにもない。そうすることによってかれはそこから逃れ出る。芸術家だけが自由な人間である。

だからこそ世界は彼らに深い疑いを抱く。一般人とは異なった反応を示すのでは信用されるのが難しい。そして芸術家は、人々が憤慨するとおり、普通の基準に縛られているとは思っていない。どうして縛られなければならないのか?

普通の人々にとって、思考や行動の第一の目的は、自身の欲求を満足させ、自己を保存することである。しかし芸術家は芸術を追求することによって自己の欲求を満足させ、自己を保存する。

人々にとっての娯楽であるはずのものは、芸術家の厳しい真剣さの結果産み出されれる。人生に対する態度はけっしておなじではありえない。芸術家は自身の価値を自ら創造する。

人々はかれをシニカルと呼ぶ。美徳を重要と思わず、悪徳にも眉を動かさないからである。かれがシニカルなのではない。人々が美徳と呼ぶもの、悪徳と呼ぶものに特別の興味をひかれないのだ。自由を構成する個々の要素に無関心なだけなのである。

普通人が憤慨するのは当然である。しかしそれは無駄である。かれを矯正することは不可能である。
(サミングアップ 第50章)

For the disadvantages and dangers of the author’s calling are offset by an advantage so great as to make all its difficulties, disappointments, and maybe hardships, unimportant. It gives him spiritual freedom. To him life is a tragedy and by his gift of creation he enjoys the catharsis, the purging of pity and terror, which Aristotle tells us is the object of art. For his sins and his follies, the unhappiness that befalls him, his unrequited love, his physical defects, illness, privation, his hopes abandoned, his griefs, humiliations, everything is transformed by his power into material, and by writing it he can overcome it. Everything is grist to his mill, from the glimpse of a face in the street to a war that convulses the civilized world, form the scent of a rose to the death of a friend. Nothing befalls him that he cannot transmute into a stanza, a song or a story, and having done this be rid of it. The artist is the only free man.
Perhaps that is why the world on the whole has had the profound suspicion of him that we know. It is not sure that he can be trusted when he reacts to the common impulses of men so unaccountably. And indeed the artist, to the indignation of mankind, has never felt himself bound by ordinary standards. Why should he? With men in general the primary end of thought and action is to satisfy their needs and preserve their being; but the artist satisfies his needs and preserves his being by the pursuit of art; their pastime is his grim earnest and so his attitude to life can never be the same as theirs. He creates his own values. Men think him cynical because he does not attach importance to the virtues and is not revolted by the vices that move them. He is not cynical. But what they call virtue and what call vice are not the sort of things that he takes any particular interest in. they are indifferent elements in the scheme of things out of which he constructs his own freedom. Of course common men are quite right to be indignant with him. But that isn’t going to do him any good. He is incorrigible.
(The Summing Up, ch.50, p.185-186)



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モーム55:作家の慰め


(大意)
芸術家は創作という行為そのものによってすでに報われている、ともかくそう考えることで、出版社の広告を眺める際の慰めにはなる。

出版物の長いリストを見たり、評論家がそれらの作品の機知や深遠さや独創性や美を称賛しているのを読むとき、心が沈む。こんなに大勢もの天才たちと競っていけるのだろうか。

小説の平均寿命は90日だと出版社が告げる。数か月の心労と自身のすべてを注ぎこんだ作品が、たった2時間か3時間で読まれ、そんなにもすぐに忘れられてしまうという事実はなかなか承服しがたいものがある。

自分の作品の一部分ぐらいは一世代か二世代生き延びるだろうという秘かな望みを抱かないような卑小な作家はいないものだ。ただしそのような思いはあまりいい結果をもたらさない。

死後の名声を信じるという虚栄心は害のないものである。しばしば芸術家の生活上の失望と破綻をなぐさめてくれる。だが、そういうものを獲得できる見込みはまったくない。

わずか20年前、不滅の巨匠まちがいなしと言われた作家たちは今どうなっているだろうか。その読者はどこにいるのだろうか。

常時産み出されている大量の本と現存作家たちによる終わりのない競争のもとでは,いったん忘れ去られた作品がふたたび思い出される可能性はほとんどない。

後代の人々はとても奇妙である。人によっては不公平と思うかもしれないが、かれらは現役人気のときにすでに人気のあった作家にしか注意を向けないものである。

一部の批評家を喜ばせるだけで大衆に届かなかった作家は決して後代の人々を喜ばせない。なぜならば後代の人々はかれらを知らないから。人気は、その作品を埋没から守るのである。そう知ることは人気作家の慰めとなるだろう。

シェイクスピアやスコットやバルザックのような作家たちも、チェルシーにいる少数の賢人に向けて書いていたとは思えない。むしろ後世に向けて書いているかのように見えるのである。

作家にとっての唯一安全なやり方は、活動そのものに満足を見出すことである。作品がもたらす魂の解放と、美的感覚をある程度満足させながら作り出していく過程で得られる満足、それによってかれの労苦は十分報われているのだということが理解できれば、世間的な結果に頓着しないでいることができるのである。
(サミングアップ 第49章)

At all events to think thus is a consolation when you cast your eyes over the publisher’s advertisements. When you read those long lists of books and when you discover that reviewers have extolled their wit, profundity, originality and beauty your heart sinks; how can you hope to compete with so much genius? The publishers will tell you that the average life of a novel is ninety days. It is hard to reconcile yourself to the fact that a book into which you have put, besides your whole self, several months of anxious toil, should be read in three or four hours and after so short a period forgotten. Though it will do him no good, there is no author so small-minded as not to have a secret hope that some part at least of his work will survive him for a generation or two. The belief in posthumous fame is a harmless vanity which often reconciles the artist to be disappointments and failure of his life. How unlikely he is to attain it we see when we look back on the writers who only twenty years ago seemed assured of immortality. Where are their readers now? And with the mass of books that are constantly produced and the ceaseless competition of those that have lives on, how small is the likelihood that work that has been once forgotten will ever be again remembered! There is one very odd, and some may think very unfair, thing about posterity; it seems to choose the works to which it gives attention from those of authors who have been popular in their lifetime. The writers who delight a clique and never reach the great public will never delight posterity, for posterity will never hear about them. It is a consolation to the popular authors who have had it impressed upon them that their popularity was sufficient proof of their worthlessness. It may be that Shakespeare, Scott and Balzac did not write for the minor saga of Chelsea, but it looks as though they did write for after ages. The writer’s only safety is to find his satisfaction in his own performance. If he can realize that in the liberation of soul which his work has brought him and in the pleasure of shaping it in such a way as to satisfy to some extent at least his aesthetic sense, he is amply rewarded for his labours, he can afford to be indifferent to the outcome.
(The Summing Up, ch.49, p.183-185)




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モーム54:芸術の評価は芸術家とは関係ない。


(大意)
できあがった作品は、良いか悪いかのいずれかである。それを決めるのは他の人々であって彼ではない。

人々は提供された交流の芸術的な質に基づいて判断する。それが現実世界からの逃避に役立つものであれば、歓迎はされるだろうが、うまくいっても二流の芸術としての評価である。人々の心を豊かにし、個性の伸長に寄与するものであれば、当然のことながら一流の芸術と呼ばれる。

しかしここでわたしは主張したいのだが、このような評価とかれの芸術とは何ら関係がないのである。……かれはすでに創作本能の満足という報奨を得ているのである。
(サミングアップ 第49章)

The work created may be good art or bad art. That is a matter for the layman to decide. He forms his decision from the aesthetic value of the communication that is offered to him. If it yields escape from the reality of the world he will welcome it, but is very likely at best to describe it only as minor art; if it enriches his soul and enlarges his personality he will rightly describe it as great. But this, I insist, has nothing to do with the artist……He has already had his reward in the satisfaction of his creative instinct.
(The Summing Up, ch.49, p.183)




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モーム53:創作とは、それ自体によって満足させられるべき特殊な活動である。


創作とは、それ自体によって満足させられるべき特殊な活動である。
(サミングアップ 第49章)

Artistic creation is a specific activity that is satisfied by its own exercise.
(The Summing Up, ch.49, p.183)





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モーム52:交流


(大意)
作品を産み出すことで作者は自分自身を満たす。ただしそのことは、作者以外には何の意味も持たない。かれが書いた本を読む人々、かれが描いた絵画を鑑賞する人々にとって、かれがどう感じているかは関係がない。

芸術家は魂の解放を求めるが、人々は交流を求める。その交流が価値あるものかどうかは、当人しか判断できない。一方、芸術家にとっては、その作品がもたらす交流は二次的なものでしかない。
(サミングアップ 第49章)

In the production of his work, the author has fulfilled himself. But that is not to say that it has any value for anyone else. The reader of a book, the observer of a picture, is not concerned with the artist’s feelings. The artist has sought release, but the layman seeks for a communication, and he alone can judge whether the communication is valuable to him. To the artist the communication he offers is a by-product.
(The Summing Up, ch.49, p.182)




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モーム51:水が丘を下るように、創作は芸術家の本性である。


水が丘を下るように、創作は芸術家の本性である。
(サミングアップ 第49章)

It is his nature to create as it is the nature of water to run down hill.
(The Summing Up, ch.49, p.182)




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