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Jailbird

Kurt Vonnegut
Granada Publishing
P239


今年4月11日にヴォネガットが亡くなった。85歳。しばらくの間知らずにいたが、なにかのおりにウィキペディアで知った。

自分ではカート・ヴォネガットの大ファンだと思っていたけれども、考えてみれば彼の作品を読んだのは20年ぐらい前の「スラップスティック」が最後で、それ以降のは知らない。「スラップスティック」から、「カート・ヴォネガット・ジュニア」の「ジュニア」が取れて、「カート・ヴォネガット」に変わったのだが、前の名前の方がなじみが深い。

そういうことがあったので、久しぶりにヴォネガットを読んでみることにした。
本書「Jailbirad」は、「スラップスティック」(1976年)の次の作品である。
1979年に出版された。

ヴォネガットを英語で読むのはなかなか大変である。ふつう物語を読むときには、なんとなく次の展開を予想しながら読むもので、ちょうど街を歩いていて、街角を曲がるときに、その先の風景をある程度予想するようなものなのだが、びっくりするような変化に遭遇することは、あまりない起こらないものだ。

ところが、かれの作品ではそうはいかない。曲がった先になにが待っているか見当がつかない。突然、断崖になっていたり、戦場になっていたり、異世界の動物園になっていたりする。ときにはウンチが落ちていたり猫が襲ってきたりする。そこに現れた思いがけない有名人がとっぴょうしもないことを喋りだす。舞台は過去現在未来の宇宙を自由に飛び回り、読者はついていくのがやっとというぐらい振り回される。そしてそれらすべてがシニカルに、かつユーモラスに語られる。語学力不足の身としては、数ページごとにめまぐるしく変化するシチュエーションを把握するだけで精一杯。油断するとすぐ今どこにいるかが分からなくなってしまう。

この作品も、わからないところはあちこちあったが、しかし、おおまかなところは伝わってきた。この作品のヴォネガットはいつものヴォネガットだ。20年前に読んだときと変わらない。知的でコミカルでしかも泣かせてくれる。物語はモザイクのように複雑に進むが、綿密に構成されていて、いったん読み出すととまらない。

ところで、ここで使われているshoppinng bag ladyというのは、初めて見る単語で、ホームレスの女性のことを指している。全財産を買い物袋ぶら下げている格好から付けられたわけで、とてもわかりやすいネーミングだ。アメリカでは1970年代後半から使われはじめた。いまから約30年前だ。

その当時、日本でいえば昭和50年代であるが、こういう姿はあまり見かけなかったように思う。ホームレスそのものが少なかった。だから、そのころこの単語を見ても、意味がわからなかっただろう。いまでは、辞書なしでもすぐピンと来る。アメリカの流行は10年遅れで日本にやってくるといわれるが、これなどもそのひとつなのだろう。

ヴォネガットの作品は面白いのだが、ひとつ大きな問題がある。それは、彼の作品を読むと、その後、何もしたくなくなってしまうということだ。このことは、かれの作品の弱点なのではないかと思う。結局ノーベル文学賞を取れなかったのは実はそのせいではなかったかなどど、下世話な話ながら思ったりもする。

昔からそうだった。彼の作品を読まなくなったのは、そのことが原因の一つだったのかもしれない。(本ををあまり読まなくなったこともあるが)

彼の作品の根底には、もちろん、不正や悪に対する怒りと悲しみがある。それが起爆剤となって作品が生み出されている。この作品の「サッコ・バンゼッティ事件」に関する描写では、珍しく作者の怒りがストレートに感じられる。
ヴォネガットが悪や不正を見通し、人間の非力さと愚かさを見通し、それらを壮大で緻密な作品に仕上げる手際は見事だ。けれども、知的なあまり、見通しが良すぎるあまり、それを読んだわれわれはなんだか脱力感に襲われてしまう。そしてその脱力感は意外と心地よい。甘美といってもよい。そこに安住していればわざわざ動き出さなくてもよさそうだ。
だが、これはいったいどうしたことか。

この脱力感と甘美さはおそらく、ヴォネガットの作品がいつも読者に言い逃れを許してくれているからではないかと思う。世界の悪も悲劇も、人間の良いところも駄目なところも、この作者はすべて見通しており、それを読み、共感する読者も、ヴォネガット同様賢く、すべて見通しており、同じく心を痛めたりはする。しかしどうしようもないんだとヴォネガットは説いてくれる。そういうものなんだと慰めてくれる。現状に関する不安と疑念を喚起はするが、最後には安堵を与えてくれる。

彼自身は、怒りと悲しみと独自の世界認識を、創作活動というポジティブな活動を通して世に訴えているわけだが、ソファーに寝転がってポテトチップスをかじりながら読んでいる読者にとっては、彼の作品は、すべて知ってはいるけれども、でもどうしようもできないんだという自己の知的水準の満足と、寝転がっていることへの自己弁護を同時に与えてくれ、しかも読んで楽しいという最上級の娯楽的読物になっているのではないか。娯楽的読物にしかすぎないものになっているのではないか。

そうなるのも、かってよく言われた「心優しきニヒリスト」としての彼の「優しさ」のせいなのだろう。しかし読者がそうなることを、作品がそのようにしか読まれないことを、彼はそもそも望んでいるのだろうか。

もしそうだとするならば、もうすこし聡明でなくてもよいから、読んだ後に元気が出てくる作家の作品の方が、いや元気が出なくて逆に悲しませるものでもいいから、要するに、笑わせる悲しませる怒らせる唖然とさせるといったふうに、もっと読者を揺さぶってくれる作家の作品の方が、作品としてはほんとうは優れているのではなかろうか。そういう気がする。
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