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監督たち 6 イビチャ・オシム-1

ジェフユナイテッド市原
イビチャ・オシム
Ivica Osim
1941.5.6生(63)
出身地 サラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナ)

プロフィールはこちらこちら

この二つを参考に、経歴を箇条書きしてみます。

1959年(18) FCゼレツカニール・サラエボ(旧ユーゴスラビア)でデビュー
1964年(23) 東京オリンピックのユーゴスラビア代表として来日
1970年(29) この年以降フランスのチームで活躍。RCストラスブール、セダンFC、バレンシネスFCなど。
1978年(37) 引退。古巣のゼレツカニール(旧ユーゴスラビア)で指導者としてのキャリアをスタート。
1986年(47) 旧ユーゴスラビア代表監督に就任。
1990年(49) イタリア・ワールドカップではベスト8。メンバーにドラガン・ストイコビッチ。
1992年(51) ヨーロッパ選手権の予選を突破したが内戦のために本大会は出場できず。

その後は、
  FCパルチザン・ベオグラード(旧ユーゴスラビア)
  パナシュナイコス・アテネ(ギリシャ)
でそれぞれ国内カップを制覇。

1994年(53)からシュトルム・グラーッツ(オーストリア)を率いて
  オーストリア・ブンデスリーガ優勝2回
  メンフィスカップ優勝3回
  スーパーカップ優勝3回。
  UEFAチャンピオンズリーグへの進出も3回
など、輝かしい実績を残して2002年9月に勇退。

UEFAプロフットボールコーチライセンス、体育教育学学士の学位を持ち、2002年ワールドカップではテクニカルスタディグループのメンバーに名を連ねた。

オシム監督の出身地ボスニア・ヘルツェゴビナや、代表監督を務めた旧ユーゴスラビアは、東欧の紛争に関するニュースでよく出てくる地名。

これらの紛争がオシム監督やストイコビッチのサッカー・キャリアに大きな影響を及ぼしたということは聞いていましたが、詳しい背景は知らなかったので、この際勉強してみました。

旧ユーゴスラビア

まず旧ユーゴスラビアについて。
地図ではここです。
バルカン半島にあり、ギリシャの北、オーストリア・ハンガリーの南、ルーマニア・ブルガリアの西に位置する国だった。

この国はもうありません。
1929年、ユーゴスラビア王国として出発。第二次世界大戦後、ユーゴスラビア連邦人民共和国として社会主義主義陣営に属しながらも、チトー終身大統領のもと、ソビエト連邦とは一線を画した独自路線を歩んだ。

当時のこの国の数え歌に、
6つの共和国(スロベニア、クロアチア、セルビア、マケドニア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ)
5つの民族(スロベニア、クロアチア、セルビア、マケドニア、モンテネグロ)
4つの言語(スロベニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語)
3つの宗教(キリスト教(カトリック,スロベニアではプロテスタント)、セルビア正教、イスラム教)
2種類の文字(キリル文字(セルビア)、ラテン文字(クロアチア・スロベニア))
1つのユーゴスラビア

というのがあり、他民族・他言語からなる複雑な国家だった。

チトーの死と社会主義陣営の崩壊の後、1990年代に入って、この国を構成した共和国が次々に独立を宣言。
その都度、離脱を阻止しようとする旧ユーゴスラビアとの紛争を経て、次々に分離独立。

1991年 スロベニアが独立を宣言
1991年 クロアチアが独立を宣言
1991年 マケドニアが独立を宣言、1992年3月に完全独立
1992年 ボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言。その後内戦へ。1995年12月和平に調印
1992年 残った2つのセルビアとモンテネグロで国名を「ユーゴスラビア連邦人民共和国」から「ユーゴスラビア連邦共和国」に変更。
2003年 国名を「セルビア・モンテネグロ」と代え、ユーゴスラビアという国名は消滅。

これらの国々の紛争で最大のものが、オシム監督の母国ボスニア・ヘルツェゴビナを舞台にしたボスニア紛争だった。

また、ユーゴスラビア連邦共和国内の中のコソボ自治州の独立運動をめぐって、同地域の9割を占めるアルバニア系住民に対するセルビア人による弾圧が行われ、99年NATOによる空爆が行われる(コソボ紛争)など、つい最近まで紛争が続いていた(コソボは現在国連の監視下におかれている)。

現在の国々

旧ユーゴスラビアを構成していた国々の現在の状況は次の通りです。
地図は、こちらを参照。
データは外務省のホームページから。

スロベニア共和国
.面積 2万256km2(四国とほぼ同じ)
人口 199万人
首都 リュブリャナ(人口33万人)
言語 スロヴェニア語
宗教 カトリック
1991年 独立
1992年 EU各国等が国家承認
2004年 NATO加盟
EU加盟

クロアチア共和国
面積 5万6542km2(九州の約1.5倍)
人口 444万人
首都 ザグレブ(人口78万人)
言語 公用語はクロアチア語、一部セルビア語等
宗教 カトリック、セルビア正教等
民族 クロアチア人(89.6%)、セルビア人(4.54%)等
1991年 独立宣言
1992年 国連加盟

ボスニア・ヘルツェゴビナ
地図では、ボスニア連邦(濃い緑)とセルビア人共和国(薄い緑)が合わさった部分。
面積 .面積 5.1万km
東北6県から福島県を除いたぐらいの面積。意外と広い。
人口:438万人(91年調査。国外に多くの難民がおり、国内の人口はこれよりもかなり少ない)
ちなみに上記5県の人口は767万人。
首都:サラエヴォ
言語:ボスニア語、セルビア語、クロアチア語
宗教:イスラム教、セルビア正教、カトリック

92年頃の人口構成はムスリム系(イスラム)44%、セルビア系33%、クロアチア系17%。
92年4月、ボスニア・ヘルツェゴビナの独立を巡って民族間で紛争が勃発。
3年半以上にわたり各民族が覇権を争ってボスニア・ヘルツェゴビナ全土で戦闘を繰り広げる。
紛争はユーゴスラビア連邦共和国、クロアチアも巻き込んで泥沼の様相を呈し、民族浄化による集団移住やレイプ、虐殺などの悲劇が各地で繰り広げられた。
その結果、死者20万、難民・避難民200万と言われる戦後欧州で最悪の紛争となった(ボスニア紛争)。

95年12月、デイトン和平合意の成立により戦闘は終息。
ムスリム系及びクロアチア系住民が中心の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」及びセルビア系住民が中心の「スルプスカ共和国」(地図のセルビア人共和国の部分か)という2つの主体から構成される一つの国家とされた。

それぞれの主体が独自の警察や軍を有するなど、高度に分権化されている。
治安は概ね安定しているが、民族間の確執は未だ根強く、民生面での和平履行は進展が遅い。
難民・避難民の帰還は少しずつ進展しているが、現在でも約100万近くの難民・避難民が存在すると言われる。

オシム監督の母国。

セルビア・モンテネグロ(旧称:ユーゴスラビア連邦共和国)
面積 10万2,173km2(日本の約4分の1)
人口 1,060万人
.首都 議会・政府はベオグラード(116万人)、セルビア・モンテネグロ裁判所はポドゴリッツァ(20万人)に設置されると規定。
言語 セルビア語
宗教 セルビア正教、イスラム教、カトリック

1992年 各共和国の連邦離脱後、「ユーゴスラビア連邦共和国」を樹立
1999年 コソボ自治区に対する武力弾圧。数多くの虐殺行為。NATOによる約70日余の空爆を受ける。
2000年 ミロシェビッチ大統領失脚
2003年 セルビア・モンテネグロに国名変更

前ユーゴスラビア大統領のミロシェビッチは、国連「旧ユーゴスラヴィア国際戦犯法廷」で、コソボ紛争におけるジェノサイドの責任者として「人道に反する罪」で裁判中。

旧ユーゴスラビアは、経済制裁を課されるなど、外交的には孤立していたが、ミロシェビッチ失脚後は国際社会との協調路線をとる姿勢を示しており、2000年11月には国連、OSCE等への加盟が実現する等、順調に復帰を進めている。

ストイコビッチの母国。

マケドニア旧ユーゴスラビア共和国
.面積 2万5,713km2(九州の約3分の2)
人口 203万人
首都 スコピエ(約56万人)
言語 マケドニア語
宗教 キリスト教(マケドニア正教)7割、イスラム教3割
1991年 独立
1993年 国連加盟
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by ループ&ループ on 2005/01/29 at 13:01:13

ようやく『悪者見参』を読み終わりました。長かった。おまけに学校で発行される図書館新聞の「私のお薦めの一冊」に選んでしまいました。こんなマニアックな本を…と、...

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