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Of Human Bondage

Somerset Maugham
1915
Modern Library
P650


サマセット・モーム最大の長編にして代表的傑作のひとつ。
第一次大戦勃発の翌年、1915年に発表された。
このときモーム41歳。

「人間の絆」は、モームの自伝的作品と言われている。
自伝的作品といえば地味で暗い作品というイメージがあるので、あまり食指が動かなかったのだが、予想に反して、めちゃくちゃ面白かった。

モームは、作家は多かれ少なかれ自分の経験をもとに作品をつくるものだと言っている。そういう意味では、小説家のすべての作品が自伝的といえるのかもしれない。

ただし本来の自伝に近づけば近づくほど、具体的な事柄が翼を縛るのか、作家の筆が窮屈そうに見えることが多い。だが、モームは自分の生い立ちをそのまま語っているわけではなく、環境設定として具体的な事例を借りてきてはいても、そこに創作をふんだんに盛り込んでいる。ストーリーテリングの名手として知られる文豪モームが、この作品を書けるようになるまで自身が成熟するのを待ってとりかかったという畢生の大作だけに、それはもう面白くないわけがない

イギリスらしい陰鬱な寄宿生時代、ハイデルベルグのドイツ留学時代と若き遊民ヘイウォードとの文学談義、パリの画学生時代とクロンショーやクラットンとの芸術と人生に関する議論など、いずれも興味深い。ここまでで約250ページ。

主人公フィリップは、イギリスに戻り、医学生としてロンドンで学び直すことになる。
ここで「悪女」ミルドレッドが登場。ここから圧倒的に面白くなる。

フィリップとミルドレッドの波乱に富んだ悲劇的な展開はこれはもう読んでもらうしかないが、男女の愛憎劇がじつにリアリティに富んでいて、モームは女嫌いといわれていたらしいが(同性愛者でもあった)、こうした迫真の場面を描くためにどれだけ深い経験を積んだのだろう。

ミルドレッドへの熱烈な求愛というそれまでの関係が一転して、かれがミルドレッドからの接近を拒むとき、

‘I can’t explain it, but it would spoil it all.’
(ch.92 p457)

「うまくは説明できないけど、そうなったらすべてがダメになってしまう。」
(第92章)


というセリフに、モームの経験と世間知と洞察が含まれている。たしかにそうなれば泥沼に陥ることは間違いない。この小説もそこで終わり。それ以上の展開はない。そういうものである。

それを理解し、そこでとどめることができるリアリティは41歳というモームの年齢抜きには考えられない。それがそうであることを納得するには、読む側にも経験と年齢がいる。

ふたりの関係を血気盛りの高校生や大学生が読んだとして、どれだけ理解できるだろう。さまざまな場面の背後にある人生を破滅に導きかねない危うさをどれだけ感じることができるだろうか。

ミルドレッドとの関係だけではなく、女性作家ノラ・ネズビットとの束の間の平穏で安楽な交渉、貧困詩人クロンショーの人生観、画家で画学校教師フォアネによる人生と才能とお金に関する話など、この作品は、中高年になって振り返ってみてはじめて感じる切実さにあふれている。そういうことは昔読んだとしてもまったく気がつかなかっただろう。この作品は大人が読んでこそ、楽しめる小説である。モームが書けるように年齢まで、成熟するまで待ったという意味もよくわかる。

だが、名作というのは橄欖石のようなもので、当てる角度によってさまざまな光を反射する。若いときは若いときなりの受け止め方がある。そのとき読んでみたら、また別の部分を面白いと感じたにちがいない。30年前といまの感想と比較してみることができればおもしろかっただろうが、残念ながらこの作品は読んでいなかった。もっとも、読んでいたとしても内容は忘れてしまっていただろうが。

最終章、次の言葉で冒険の時代と青春時代が終わったことを読者に告げたのち、この長い物語は終わる。

It might be that to surrender to happiness was to accept defeat, but it was a defeat better than many victories.
(Of Human Bondage ch.122, p610)

幸福に身をゆだねることは敗北を認めることかもしれない。
だがその敗北は数多くの勝利よりも好ましい。
(人間の絆 第122章)


もちろんフィリップの人生はここで終わったわけではない。
ここからはじまるのである。

しかし青春時代の危機の経験こそが、その後の人生にいつまでも残る記憶なのだろう。幸福な日常、平穏な日々の記憶は人の頭には残らないようにできているようだ。フィリップが晩年になって思い出すのもまた、この物語のあとに続く田舎での仕事と家庭と育児の長い長い出来事よりも、都会のに繰り広げられた波乱と動乱の記憶なのだろう。

モームは最後の部分には不満だったようだ。
たしかにそれまでの視線の厳しさが、ここでは緩められているように思える。そうした優しさやハッピーな雰囲気が冷笑家モームとしては気に入らなかったのだろうか。
モーム自身はこの道をたどらなかったし、たどらなかった道を甘ったるく描いたことに我慢がならなかったのだろうか。
その道をほんとうは憧れているのだと受け取られかねないとでも思って?

しかしモームのこの不満は根拠がないと思う。
メルヴィルは「白鯨」の中で、若い頃の大きな夢は年老いて温かい暖炉の夢になるといって地上的な幸せを批判的に描いた部分があるが、フィリップはその夢の中で、モームは実際に、そうした大きな夢を抱いて海に出かけて行った人々である。

だが、出かけていったクロンショーらの悲惨な最期をわれわれは見たのではなかったか。根拠のない自信と情熱だけで生きたプライス嬢の悲惨。全編にわたってわれわれが聞いたのは、かれらの貧窮と惨状だった。フィリップはそこから間一髪で抜け出したのではなかったか。そうであれば、この結末は、この小説としては論理的に妥当である。それ以外はありえない。モームがこの点に不満をもつのは的はずれである。

ただしわたしには、かれらの人生よりもフィリップの人生の方が良いとは、作者はひとことも言っていないように思える。フィリップ自身が納得しただけにすぎないのではないか。プライス嬢の悲惨、クラットンの厭人狷介、凡庸画家の絶望はあっても、それはそれでありなのではないか。他人の評価の有無や高低がその人の人生の価値を決めるのだろうか。幸運にも忘却から救い出された詩人クロンショーの人生は、もしもその詩が発見されなかったら、まったくの無だったのだろうか。

モームはフィリップに光を当てすぎ、非日常に挑むものたちに影を投げかけすぎたのではないか。モームのあの不満は、その自覚による不満だったのかもしれない。

しかし、いずれにしても41歳のモームが書けるのはここまでである。そのあとの半生は、かれにとっても未知の世界である。物語はいつか現実の世界に移らなければならない。紙の中の創作の世界から、現実のわれわれの生活と続いていかなければならない。それこそが名品の名品たるゆえんであり、世界的な文学作品がもっているクオリティにちがいない。

わたしに唯一不満があるとすれば、第96章で、作者がミルドレッドの心理経過を詳しく説明している部分。ここは蛇足だと思う。

詩人金子光晴の「どくろ杯」「ねむれ巴里」「西ひがし」の3部作は、作者とその妻がヨーロッパを巡った自伝で、時代は第二次世界大戦前、ちょうどこの作品の時代と重なっている。最底辺の生活を続ける間、作者は妻の心理を一切描いていない。描こうとしても男性側からの勝手な想像にしかならないからだ。

モームのこの部分も、作者が無理にでっちあげた理屈にしか見えない。むしろないほうがミルドレッドの行動のリアリティさを増したはず。男には女の心理はわからないのだ。ここにこんなふうに書いてあるばかりに、モームの女性に対する復讐心のようなものが垣間見えてきて、作品の現実性と香気をすこし損なっているように思えるのだ。




このエントリーのタグ: Maugham 人間の絆
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