トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

since2004.10.27

最近の記事

リンク

Search 

Ranking

ブログランキング・にほんブログ村へ




アクセスランキング

[ジャンルランキング]
スポーツ
525位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
サッカー
105位
アクセスランキングを見る>>

地下室の手記

ドストエフスキー
安岡 治子=訳
光文社
光文社古典新訳文庫
p285


1864年 43歳 第20作。

いよいよ後期の傑作群の登場。

最初は「地下室の手記」。

「地下生活者の手記」とも訳される。

最初に読んだのは高校のとき、二度目に読んだのは大学生の時で、いずれも新潮社の江川卓の訳。
タイトルは「地下生活者の手記」だった。

数十年ぶり、三度目を読んだ。

例によってストーリーはあらかた忘れてしまっていたが、やっぱり面白い。
ものすごく陰惨な物語なのだが、読みはじめると惹き込まれてしまう。
特に、第二部「ぼた雪に寄せて」でリーザが登場してからが圧巻。

自意識に捉われた現代のわれわれの姿をあますところなく描いた作品で、いまから150年以上も前に書かれたとは、驚くばかりだ。
自分の意識を持てあましがちな高校生や大学生が、そこに自分の姿を発見して、ドストエフスキーに熱中してしまうのは至極当たり前である

だが、いまになって思うに、こういうふうに人間を描き切ってしまったからこそ、そして人々がそこに自分自身を発見したと思ってしまったからこそ、現在の人々が実際にこうなってしまった、ということはないのだろうか。

ドストエフスキーがここでこう描いてしまい、後に続く作家たちが、ここで見事に描かれた偽悪的にも偽悪的な主人公の深淵を覗きこんで――繊細で鋭敏な神経と良心の持ち主であればあるほど――その醜悪な姿を自分だと思い込み、ある者は深刻そうに頭を抱え、ある者はやけくそになって馬鹿騒ぎをしながら芸術的に突っ走ってしまったということはなかったのだろうか。

心理の変転を恐ろしいまでに精確に描き切ったこの作品があったからこそ、どこまでいっても意識の裏側に突き抜けることができない現代人ができあがってしまったのではないだろうか。もしこの作品がなければ、現代人の意識はまた、ベつのありようがあったのではないだろうか。

そう思わせるほど、この作品の主人公は、生々しいわれわれの自画像でありすぎる。

だが、そう思ったわれわれは正しいのだろうか。
この自画像は、ほんとうにわれわれの自画像なのだろうか。
そこに幻想はなかったのだろうか。

そもそもドストエフスキーの人間というものに対する最終回答は、この主人公の悲惨で醜い姿であったのだろうか。

ここに描かれたのは、写真でいえばネガの姿で、ネガをネガとして浮かび上がらせるためにはポジの世界が必要ではないだろうか。その視点があるからこそ、ドストエフスキーはここまで精確にネガの世界を描き出すことができたのではないだろうか。

そこはよくよく考えてみなければならない点だ。





このエントリーのタグ: ドストエフスキー
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

Calendar

09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

+ アーカイブ
 

カテゴリー

レビュー