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死の家の記録

ドストエフスキー
望月 哲男=訳
光文社
光文社古典新約文庫
p741

1861年 40歳  第16作。

死の家の記録は、ペトラシェフスキー事件に連座して、反逆罪に問われたドストエフスキーが、1850年1月から54年1月までの4年間を囚人として、頭を半分剃られ、足枷をつけられ、強盗殺人犯や詐欺師や窃盗、農民や貴族、イスラムの異民族から異端のキリスト教徒まで、雑多な人々とともにシベリアの流刑地で過ごしたときの様子を描いた作品。

ときにはチャバネゴキブリが大量に入ったスープが出てくるような境遇の中で、社会の最低辺の人間と文字通り寝食をともにしながら行った人間観察の記録である。

ここまでのドストエフスキーの作品では、デビュー作「貧しき人々」が代表作だが、あの「貧しき人々」は、正直言って内容よりも、巨匠の第一作ということと、あの有名なデビューのエピソードで、必要以上に持ち上げられてきたきらいがないでもなかったように思う。

この「死の家の記録」は、それ以前とそれ以降の作品を画し、ドストエフスキーの名を歴史にとどめる素晴らしい作品。

それまでの、どことなく軽躁なざわめきを背景に感じられる作品群に較べ、重厚で落ち着いていて、陰鬱な中身のはずなのに、どこまでも汲みつくせないという感じを抱かせる。
そういうのを芸術作品というのだと思う。

この流刑地の生活でかれが発見したのは、人間がどこまで卑劣になれるか、どこまで得体のしれない怪物になるのか、それが可能性としてはなく生身の人間として現実に存在しているということと、にもかかわらずそれぞれの人間が持つ自由の意味と必然、そしてひとりひとりの人間の尊厳である。
まなざしの中心はもちろん後者にむけられている。
でなければ人間の総体を捉えきった報告は書けなかったただろう。

そういうとなんだか真面目くさってきこえるが、この作品はそういう堅苦しいものではない。
後期の作品から、かれは観念的な作家と思われがちだが、流刑地の生活を描く筆致はかなりジャーナリスチックで、そういう辺境についてまったく知らない興味津々な読者を飽きさせない。
ドストエフスキーはルポルダージュ作家としても超一流であることを示す作品でもある。

人間にとってもっとも恐ろしい罰は、無意味な作業を続けさせることで、それをすると必ず狂ってしまうという有名な文章は、この作品から。

「もしも一人の人間をすっかり押し潰し、破滅させてやろうとするつもりで、どんな残忍な人殺しでも聞いただけで身震いして腰を抜かすような、最高に恐ろしい罰を科すとしたら、ただ単に一から十までまったく無益で無意味な作業をさせればいいのだ。……囚人に、たとえば一つの桶から別の桶に水を移し、その桶からまたもとの桶に移すとか、ひたすら砂を槌で叩くとか、一つの場所から別の場所に土の山を移して、また元に戻すといった作業をやらせてみれば、きっと囚人は何日かで世をはかなんで首を吊るか、それともそのような屈辱、恥、苦しみから逃れるためならいっそ死んでもいいと、自棄になって犯罪をし散らすことだろう。」(p50-51)


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