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小さな英雄 抜粋2

ドストエフスキー
小沼文彦=訳
筑摩書房
ドストエフスキー全集第2巻
p261―296


一方、マダム・Mの夫は、俗悪の塊として徹底的にやっつけられる。

彼は頭の切れる人間と言われていた。ある種のサークルでは、他人の犠牲において私腹を肥やしたある特殊な人種を、そんなふうに呼んでいるようである。こうした特殊な人種はまるっきりなにもしない、それこそまるっきりなにもしようとはしないのだ。それで不断の怠惰となにもすることがないおかげで、心臓の代わりに脂肪のかたまりが鎮座しているということになる。彼らの口から絶えず聞かされるのは、なんだか非常に錯綜した、自分たちとは相容れない複雑な事情があって、自分たちにはなにもすることがないのだ、そしてそうした事情が『自分たちの天才をくじけさせ』、そのために自分たちは『見るも気の毒なものに』なっているのだということばである。これは彼らにとってはもはや華麗な飾りことば、合いことば、スローガンのたぐいになっていて、こうしたことばをわが食らい太ったでぶちんどもは、いたるところで引っきりなしに振りまくので、もうとっくの昔にみんなを飽き飽きさせるようになり、正札つきの偽善者だ、そんなものは内容空虚なことばにすぎないと見破られている。とは言うものの、自分たちのなすべき仕事をどうしても発見することのできない――もっとも、彼らは一度だってそれを探し求めたことなどはないのであるが――こうしたおどけ者の中には、ほかならぬつぎのようなことをねらっている連中もいる。つまり、自分たちは心臓の代わりになにも脂肪のかたまりを抱いているわけではなく、それどころか、一般的に言って、なにか非常に深遠なものの持ち主なのだと、みんなに思い込ませたくてならないのだ。だがそれでは果たしてそれはなんであるか――それについては一流中の一流の外科医でもなに一つ言うことはできないであろう。もちろん、礼儀を重んずればこそである。こうした紳士たちは自分の本能のすべてを、礼儀を無視した嘲笑、きわめて近視眼的な非難攻撃や際限を知らない傲慢な態度に集中することを、世渡りの方針にしている。ところが彼らには、他人の過ちや弱点を見つけ出し、それを馬鹿の一つ覚えのように繰り返すよりほか、なにもすることがないので、また善良な感情などは、それこそちょうど牡蠣に割り当てられているぐらいしか持ち合わせていないものだから、こうした予防手段を講じながら、世間の人たちとかなりうまく暮らして行くことは、彼らにとってはそれほど難しいことではないのである。それを彼らはまた非常にいいことだと思ってひけらかしているのだ。彼らは、たとえば、全世界が当然彼らに年貢を払ってもおかしくないぐらいに、ほとんど信じて疑おうとしない。つまり、そんなものは彼らにとってはいざという場合のために取って措く牡蠣みたいなものなのである。彼ら以外の人間は誰も彼もみんな間抜けなやつらで、どいつもこいつもオレンジかスポンジみたいなものだから、甘い汁が吸いたくなったら、いつでも気が向いたときにしぼりさえすればそれでいい。自分たちこそすべての人間の御主人なのである。そしてこうしたきわめて満足すべき事態に立ちいたったのも、もとはと言えば、自分たちが実に頭の切れる、特異な強い性格の持ち主だからであるというわけなのだ。(p272-273)

これでもまだ半分。
ドストエフスキーのこういうシニカルなスタイルの文章は珍しい。
検閲は大丈夫だったのかなと思わせるぐらい吹っ切れている。


このエントリーのタグ: ドストエフスキー 小さな英雄
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