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パッション

パッションて、情熱ではなく、受難なのね、とだれでも言うような感想をまず一言。

これは愚劣な映画である。
これをつくった監督はいったいなにを考えてるんだろうね。
キリストの死に至る12時間を描いた映画ということだけど、単に、ナザレのイエスという男が捕まえられ、拷問を受け、磔にされるまでを、視覚的にリアルに描いただけじゃん。プライベート・ライアンの冒頭の凄惨な戦闘シーンを2時間ぶっつづけで見せつけられたようなもの。たんにそれだけ。ホントにそれだけ? それだけです。

これでキリストの死を描いたというんなら、まああれです、甲子園で応援する女子高生のスカートの下を2時間写し続け、これも甲子園の現実ですというようなものだ。それはそうかもしれないけど、だからそれがなんなのといいたい。それじゃおかしいだろ。それぐらい卑猥で愚劣な映画だ。

それとも、なんだ、こういうことを言いたいのか。さすがに神を信じている人間は、これだけの拷問に耐えられる、だからエライと。
うーん、そうかもしれないな。しかし、もうすこしなにかないのかね。これでは単なるSM映画じゃないか。見かねて数人が席を立ったけど、それは正解だ。だって、あと、なーんにもないんだもの。延々とサディスティックな虐待シーンが続くだけ。それを産みの母親と弟子とマグダラのマリアが見守るという…仰々しく撮ってあるけれど、やっぱり最初からキリストに名を借りた純正SM映画として作ったのかもしらんなあ。この監督ってそういう趣味なのね。

ま、これが娯楽映画なら、最後に反撃して、虐待した奴らを片っ端から殺してまわるというキモチイイ展開が待っているわけだが、そんなことは起こらないと分かってるしなあ。ああ不愉快。

で、ラストシーンでナザレのイエスの棺桶の蓋があいて、手に穴の空いた男が復活するわけだが、これもね。
イエス・キリストの復活というより、ゾンビの復活という撮り方だもんな。笑ってしまった。

いやべつに私はクリスチャンでもなんでもないですよ。なんでもないけど、人の死を扱うのに、それも、ナザレのイエスという、弟子達が残した記録によれば、あれだけの言葉を語った一人の男の死を扱うのに、こういう描き方はないだろうと思うわけです。最後の12時間を描くといいながら、豚を切り刻んで殺してしまう、その殺し方のリアルさだけを描いた映画をつくる奴の神経を疑うわけです。
で、それを商売にして、みんなに見てもらおうとしているわけですからねえ。

アラム語やラテン語など、当時の言葉を忠実に使って作ったというけど、なんのためかね。殺し方のリアルさを強調するためかね。そんなことはやらんでよろしい。この馬鹿さ加減、非人間性は、この監督の親族や友人、いやまったくの他人でもいいけど、そいつがかりに交通事故で死んだとして、車がぶつかった瞬間から、空中に投げ上げられ、道路に落ちて頭が砕かれるまでをスローモーションで2時間かけて再現し、それを故人の知人も含めてみんなから金を取って観せてまわれるかということです。それぐらいのことをこの映画ではやっている。

私が思うに、この監督の視点は、悪役として描いたユダヤの神官、ナザレのイエスを死に追いやった彼らより、さらに悪辣だ。動機は自己保身であったかもしれないが、あの神官たちには、かれらなりのせっぱ詰まった必然性があっただろうと思う。
でもこの監督はどうか。なぜこんな虐待映画を撮る必要があるのか。恐ろしいことだが、この監督にとって、べつに主人公がイエスである必要はないんじゃないかとも思えるのである。
あの虐待の対象が幼児であったらどうなのか。そんな映画を作られて商売されたらたまったものではないが、この監督の嗜好、あるいは大きな勘違いからすれば、そんなことを思いつかないともかぎらないではないか。
プライベートでそういう映画を作るために私財を投げ打とうがどうしようがそれは本人の勝手だが、そんな余計なことはしなくてよろしい。金はもっと大事につかってもらいたい。

そしてイエスの死を要求して石を投げた人々、その周辺で目を覆う人々、この人々に対してはなにも言えない。われわれがあの場にいあわせたら、おそらくいずれかの態度しかとりえないだろうと思うから。
ただしあの人々も、われわれと同じく、ナザレのイエスの拷問をサディスティックに楽しもうとは思っていなかった。そんなことは馬鹿な監督の妄想以外、ユダヤの神官達さえ思いつかなかっただろう。

ただし、こんな映画とは知らずに、わざわざ金をはらって見に来てしまったわれわれ観客は、このロクでもない映画のおかげで、いやがおうでもある質問を突きつけられる。突然サドマゾショーの現場に出くわしてしまったようなものではあるが、どんなに下劣に描かれていようと、そこで描かれているテーマは無視できるものではないので、その主催者に対しどういう態度をとればいいのかということが問われてくる。この出し物はいったいなんなのか。この映画にはいったい意味があるのかないのか。人の罪を背負って死んだといわれる一人の男の死をこういうふうに描いた映画をどう評価すべきなのか。われわれ観客はこのとんでもない映画からそう問いかけられているように思う。わたしの返答は以上述べたとおりである。この映画は評価できない。愚劣な映画である。

以上は公式サイトを見ないで書きました。
公式でどんなことを言っているか、いまから見てみます。

原題:THE PASSION OF THE CHRIST
公式サイト

「最も語られるべきものが今だ語られていない。凄惨なシーンを描くのも、ある一つの目的のため」とメル・ギブソンは語る。「私の望みは、ユダヤ人を非難することではなく、キリストが我々の罪を償うために味わった恐ろしい苦難を目にし、理解することで、人の心の深いところに影響をあたえ、希望、愛、赦しのメッセージが届けられることだ」。

ふーん。でもそれには失敗してますね。
これを見て、希望、愛、赦しは伝わってきません。
この映画をみて、ユダヤ人がとんでもないサド野郎なんで、歴史的な迫害もある意味自業自得だということは伝わってきました。
また、監督がイエスが味わった「恐ろしい苦難」を再現するため、拷問方法の考案に熱中していることもよく分かりました。
それと、過激な映画を撮って美しい言葉を語っておけば、けっこう儲かるもんだなということも分かりましたね。

「メル・ギブソン監督は敬虔なカトリック信者で、12年の構想歳月と約27億円の私財を投じてこの映画を作ったという」

そうですか。キリスト教徒に特有の心性かなにかあるのかな。
では毎年クリスマスにこの映画を見て、イエスの受難を思い祈るのかなあ。そういう映画になっているのかな。そういうものになっていなければ宗教映画としても失敗ではないのかな。
まあここまでくると私にはわからない世界ではあるので、ここでとどめようと思います。
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