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弱気

ドストエフスキー
小沼文彦=訳
筑摩書房
ドストエフスキー全集第1巻
p403―446


ドストエフスキーの第7作。
1848年 27歳。

幸せな婚約に舞い上がった挙句、仕事が手につかず、仕事の締め切りのプレッシャーに押しつぶされてしまう気弱な若者の話。

仕事が気になりつつ、ついつい脇道にそれてしまう主人公の言動は誰しも共感できるところ。逃避にしかすぎないのだが、仕事が重要であればあるほど、そうなってしまいがちである。

それにしても主人公ワーシャと友人アルカージイの友情を歌い上げるシーンは、手放しすぎて、こちらが恥ずかしくなるぐらいだ。ふたりとも酔っぱらっているんじゃないかと思ってしまうが、素面なのが恐ろしい。感激症もいいところ。ロシアの若者というのは、こういうものなのだろうか――それに、男同士で5年も共同生活を送るというのは、貧しければ仕方ないかもしれないが、なにかといえばすぐ抱擁しあうというのは、われわれの感覚では信じがたい。

印象的なのは、ラストシーン。
ドストエフスキーは、心理描写の作家と思われがちだが、風景描写も、本人がその気になれば、じつに印象的だ。
「貧しき人々」でも、ワルワーラが少女時代を回想するシーンで、田舎の牧歌的生活が美しく描かれていた。

親友ワーシャが亡くなった後、アルカージイが家路につくシーン。

「二ェヴァ河のそばまで来たとき、彼はしばらく足をとめて、河下の寒さにどんより濁った、煙ったような遠景に、突き刺すような視線を投げた。靄のかかった地平線にいまや燃え尽きんとしていた血のような夕映えの最後の濃紅色の輝きに、不意に夕空があかあかと燃え立った。夜のとばりが音もなく町の上におり、凍った雪のために盛り上がった、広漠としたニェヴァの河面は見わたすかぎり一面、名残りの夕陽に照り映えて、幾千万とも数知れぬ針のような霜の火花を散らしていた。零下二十度の寒さが襲いかかろうとしていたのだ。めちゃくちゃに追いたてられる馬からも、走って行く人からも、凍ったような湯気がもやもやと立ち昇っている。ひきしまった空気はほんのわずかな物音にもふるえ、河岸通りの両側に立ち並んだ屋根という屋根からは、まるで巨人のような煙の柱が立ち昇り、途中で互いにもつれあったり解けたりしながら、冷たい空を上へ上へと昇っていく。そこでそれを見ていると、まるで新しい建物が古い建物の上に浮かび上がり、新しい町が空中に形づくられてゆくように思われるのだった…。」
(p445-446)


そのあと不思議な描写が続く。

「さらにまた、この全世界が、強弱とりどりのその住人もろとも、またあらゆる住居――この世の強者の慰めである金殿玉楼、あるいは乞食の掘立て小屋にいたるありとあらゆる住まいもろとも、この黄昏時にはすべてなにか空想的な、魅惑にとんだ幻か夢のようなものに思われ、その夢は夢でいまにも消え去り、青黒い空に煙となって雲散霧消してしまうようにも思われた。」(p445-446)

それに続いてアルカージイの内面に起こった出来事。

「いまは一人ぼっちになった哀れなワーシャの親友の頭に、ふとなにか奇怪な想念がおとずれた。彼は思わずぎくりと身をふるわせた。するとその瞬間彼の胸は、なにか力強い、だがいままで味わったことのない感覚の流入によって、突然さっと沸き立った血潮の熱い奔流にみたされたような気がした。なんだかやっといまこうした不安の全貌がつかめ、そして哀れな、その幸福をもちこたえることのできなかったワーシャが、なぜ発狂したかという理由も、はっきりのみこめたように思われた。彼の唇はわなわな震え、その目は急に燃え立った。彼の顔はさっと青ざめ、そしていまこそなにか新しい事実を見破ったようであった…。」(p446)

そして、次の文章が続く。

「彼は気むずかしい、面白くない男になり、それまでの快活さもすっかり失ってしまった。」
(p446)


かれは何を理解したのだろうか。
かれが把握した「不安の全貌」や「ワーシャが、なぜ発狂したかという理由」というのは、どんなものだったのだろうか。
なぜその後気むずかしい男になったのだろうか。

考えてもよくわからない。

しかしこの最後の部分によって、この作品は強い印象を残すことになった。

【追記2015/3/16】
当時ドストエフスキーは、ペトラシャフスキーのサロンで、フーリエやサン・シモンらのユートピア社会主義を議論していて、当然当時のニコライ一世による帝政には対しては、反体制的立場をとっていた。この年の2月にはフランスで2月革命、3月には、プロイセン、オーストラリアなどでも革命が起こっていたので、仲間内に議論もさらに盛り上がっていただろう。

一方、検閲制度が厳しかったので、批判めいたことは書けなかった。実際、「プロハルチン氏」は、検閲でズタズタにされたようだ。
とすると、間接的な表現で示すほかはない。
「まるで新しい建物が古い建物の上に浮かび上がり、新しい町が空中に形づくられてゆくよう」というのは、今の社会ではなく、別のあるべき社会があるのではという彼なりの批判的表現だろうか。また、アルカージイがぎくりと気がついたのは、この社会の非情さと矛盾であり、かれが気むずかしい、面白くない男になったのは、そうした社会を覆すことのできない己に対する失望からだろうか。

そうかもしれないし、そうではないかもしれない。
いずれにしろこの作品は、そうした深読みをうながす、余韻を残す終わり方になっている。

ドストエフスキー全集 第1巻
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