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おかみさん

ドストエフスキー
小沼文彦=訳
筑摩書房
ドストエフスキー全集第1巻
p315―384


ドストエフスキーの第5作。
1847年 26歳。

デビュー作「貧しき人々」を激賞した当時の権威ある批評家ベリンスキーに、「自分たちはドストエフスキーが天才などととんだ自己欺瞞に陥っていたのだ」と言わしめた、「奇妙な作品」、「わけのわからない作品」(p488)

訳者もその意見に同感のようだが、そうは思えない。
主人公は貧しくはあるが、遺産で細々と暮らしながら学問で身を立てようとしている孤独な青年。勤め人と違って時間を自由な時間をたっぷり持っている点では、現代のフリーターや大学生と同じで、その点、当時新進作家であったドストエフスキーも同様なので、これまでとは違って、作者の境遇に近い人物を主人公に選んだわけである。

主人公オルドゥイノフが新しい借家を探すことになり、ペテルブルグの街を彷徨するところから物語は始まる。どこか「マルテの手記」を思い出させる都会の描写だが、20世紀初頭のパリの暗澹とした索漠さと、そこに住む主人公の孤独と疲労感を描いたリルケと違って、陰鬱なペテルブルグを描きながらも、主人公が希望に満ち溢れているのは、弱冠25歳というドストエフスキーの若さのゆえだろうか。あるいは爛熟したヨーロッパ文明に較べれば粗野で未開にとどまっていた19世紀ロシアの野人的活力のせいだろうか。

ふとしたきっかけで、老商人を夫に持つ美しい人妻カチェリーナと出会い、その家に間借りすることになる。オルドゥイノフとカチェリーナの、ロマンスというにはあまりに激しい感情と興奮。二人の会話は、優しい情愛の交流ではなく、被膜のない神経同士が触れ合う火花といったほうがふさわしい。しかし、燃え上がった恋情の物狂おしさと甘美さと苦痛を迫真的に描き出す作者は、いつ、どこでそういう体験をしたのだろう。そういう体験がなければ、芸術家としての天稟だけでは、このような場面は描き出せないはずだが。

ドストエフスキーはこのころすでにペトラシェフスキーが主催する革命結社(といっても、集まって反体制的な話をするだけの知識人サークルに過ぎないが)に参加していたはずだから、そこで誰か、革命に燃える美しい娘とでも知り合ったのだろうか。いや、このサークルは男性ばかりなので、それは考えられない。だとすると、人気作家としての彼を慕う上流階級の娘の誰かとでも密かに恋に落ちたのだろうか。そういう記録はどこにも残っていないようだが、いずれにしろ、想像だけで、恋愛の興奮と拒絶の悲痛さをあれだけ見事に描き出せないだろう。

ドストエフスキーの描く女性は、非常にリアルだ。彼の若さを考えれば、表現の具体性は、驚くべきことである。処女作の「貧しき人々」のワルワーラにしてからが、貧しいけれども素直なオボコ娘に描いてあるように見えるけれども、よくよく考えてみると、じつはひじょうに厚かましいというか、なんというか、女ならでは、としかいいようのない行動をとる。とくに、若い女性が、自分のことを気に入っているに違いない善良な男性に対して、いかにもそういう態度をとるだろうというような態度をとる。

たとえば、中年の冴えない下級役人であるマカール・ジェーヴシキンが身分不相応な貢物をして、貧しい生活がますます貧しくなっていくのを知って厳しくたしなめるのであるが、いざ彼女自身が困るとなると、手の平を返したように、ぜひ借金してくれと催促する(それも、かって自分と関係あった男から逃げようとしてである――マカールとしては自分の恋敵を負かすための金であるから、断るなんてことは考えられない。絶対命令である。それをわかっての依頼というところに、意識的な無意識的かは別にして、愛情がらみの場面での女性特有の計算高さが見える)。

あるいは、あれだけ恐れ、嫌がっていたブイコフと結婚するとなった途端、豪華な結婚式用を挙げるための買い物のために、マカールを顎でこき使う。哀れなマカールは、役所も休んで、刺繍入りのハンカチを買うため街中を飛び回る。それというのも、恋敵ブイコフのためである。こういう依頼を平然とするワルワーラの無神経さもそうとうなものだが、もともと女とはそういうものである。手紙の中では、悪党のブイコフを恐れて逃げ回っているなんてことをいっているが(それはそうだろう。好意を寄せているマカールに対しては、そう書くしかないわけである)、実際はどうだったか、この自分と結婚したがっている金持男に対して、貧しい女がどういう思いを抱いていたのか、どういう会話があったのか分かりはしないのである。
ドストエフスキーは、女性のこの現実的な態度を、いったい、いつ、どこで学んだのだろう。

この「おかみさん」という作品でも、青年オルドゥイノフと夫である老商人のどちらを選択するかというぎりぎりの瞬間、激情にかられた主人公に対して、カチェリーナが突然、深い軽蔑の視線を投げつけ、絶望させる恐ろしい場面がある。こうした非道ぶりは奔放な美女に似つかわしい。どうしてこんなことを知っているのか。よほどひどい目にあったに違いないのだが、そのことに触れている伝記はないのではないか。不思議である。

物語は、作者にひきずられてぐんぐん進むが、読者もそれに引きずられて最後まで読み通す。激情と興奮しかないような物語だが、それだけで最後までもっていく力量はすばらしい。読者を引きづってでもページをめくらせる力というのは、小説家なら、だれでもが欲しがる才能だろう。

サマセット・モームは「世界の10大小説」のなかで、ジェーン・オースチンが持つ「大した事件が起こらないのに、ページを繰らずにはいられない」文章を書く才能を、希有の才能として褒め称えていたが、ドストエフスキーは力ずくである。ロシアの暗い森のなかを、後ろから恐ろしいなにかが迫ってくるような恐怖で煽り立てながら、読者を先に先に追い立てる。このひきずっても読ませる力がなければ、後年の、あの分厚い小説群は、広くは読まれなかっただろう。物語を読ませる作家としての天分を、ここで見せつけている。作家としてのむき出しの才能を見せた中編といえるだろう。

ただし、それだけ、ということはいえる。興奮だけの作品。それを入れる枠組み、土台がまだできていない。後年の長大な作品の一部としてもおかしくない作品であるが、まだ入れ物ができていない。そのために、どこに向かっているのか分からない「奇妙な作品」「わけのわからない作品」というベリンスキーの批評は当たっているのだろう。

最後にタイトルに関して一言。
この熱病にかられた青年の精神の昂揚と破局の物語のタイトルとして、「おかみさん」はいかがなものか。
あまりにのんびりしすぎたタイトルで、間抜け感がただよう。まるで、「悪霊」を「こわいおばけ」と訳したときのような違和感。
せめて他の訳者のように「家主の妻」とできなかったものか。

どうも訳者の小沼文彦氏は、タイトルに限っていえば、センスがなさすぎだと思う。
「貧しい人々」は、通常訳されるように「貧しき人々」の方がいいと思うし、「二重人格」より「分身」がいい。
この後出てくる「弱気」も、「弱い心」の方がいいと思う。

ドストエフスキー全集 第1巻



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