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葉山嘉樹集-14 ⑦今日様(3)

長々と引用したが、それは、中段の「そして俺は」以下だけでは、まるで中学生か高校生の感想文みたいで、あまりにも素朴すぎて唖然とするので、そうではなく、やはり文学史に残る一流の作家らしくいろいろ深く考えて書いている中の一部分だということを示したかったからなのだが、だが、やっぱり素朴すぎるというしかない。素朴というか、単純というか。四十にもなろうという作家が、左翼文学の代表選手であった作家が、いまさらそんなことを言い出すとは信じがたい。

もともと人の値打ちが同じであるからこそ、そうではない社会が問題であると感じたからこそ、かれらの運動はスタートしたのではなかったか。
そういう感覚を欠いた運動は、一握りの人間が残りの大多数を支配するという点で、かれらが敵視する資本主義とどこが違うのだろうか。敵の理想は金儲けだが、こちらの理想はもっと麗しいものなので、支配される人々はより幸せになれるとでもいうのだろうか。

そしてそれを抱くことによってかれと田舎の親爺たちを分け隔て、かれを優位に立たしめているという「人類の理想」、その理想が実現した社会とはいったいどういうものなのだろう。

そこでは、夫婦喧嘩や夫婦喧嘩の仲裁のような「小さい事」、「取るにも足らぬ事」、「卑俗な事」は存在しないのだろうか。「俺自身の家族の事を、身近に感じ、その利害の為に、目先きの仕事を追っかけてゐる」ようなことは存在しないのだろうか。存在しないとしたら、はたしてそれは人間の社会なのだろうか。

もちろんそんなことはない。
人間の社会、それを構成する一人ひとりの人間の生活は、そのような「卑俗な事」の連続の中に成り立っている。それ以外に人間の現実の生はない。そのような一瞬一瞬の出来事の連続が、人間が生きているということである。

そのような生の一瞬一瞬が捨象された社会は、作家の頭の中以外のどこにも存在しない。もし存在すとしたら、それは生の具体性をまったく欠いたおそろしく抽象的な世界、生身の人間が住むには過酷な世界―牢獄という言葉がもっとも似つかわしい世界になるのは必然である。

日々の生活の中であれだけ辛苦してきたはずの作者が、そのことにまだ思い至っていなかったとすれば驚くほかない。プロレタリアートたちも、とんだ夢想家を著名な仲間として持ったものである。

闘いの主戦場はどこか宙空にあるのではない。
日常の一瞬一瞬がすべての出発である。そこでの帰趨がすべてを分かつ。そのために知恵を凝らし、工夫を凝らす、そういうふうにしか人間は生きられないのだ。

そして一瞬一瞬の精確さが問われている。その精確さは、人間というものの本質に沿った理解からしか出てこない。人間がどのようなものであるかを知らなくして、どうして精確な応えが出せるだろうか。

そして人間理解のわずかなユガミと応答の不正確さが、あのような悲劇を、個人的悲劇にとどまらず、世界的悲劇を産んだ―いまでも産んでいる―そもそもの源ではないだろうか。

* * * * *

イデオロギーの衣を剥ぎ取ってみれば、出てくるのが人々と自己との関係のあのような幼稚な述懐であるというのは微苦笑をさそうが、それはそれとして、作者が描く農家の話は十分魅力的である。

ここでは作者は人間を描くロシア的作家への進化と、私事を描く心情作家への転落のはざまにいるようにみえる。
そしてどちらに傾くのか未決のまま、作品は投げ出されたように終わる。

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