トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

since2004.10.27

最近の記事

リンク

Search 

Ranking

ブログランキング・にほんブログ村へ




アクセスランキング

[ジャンルランキング]
スポーツ
576位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
サッカー
106位
アクセスランキングを見る>>

流旅の人々(2/2)

葉山 嘉樹
筑摩書房
筑摩現代文学大系36
p494


「流浪の旅を、その誕生の第一日から踏み出し、そしてその死を、流浪の旅のある日に置く、これらの人々にとつては、幸福と云ふ事は、追究すべき重要な問題ではなかつた。
 生きる、と云ふ事が重大な問題であつた。
 そしてこの流旅の旅の途上に在る人々の、生きると云ふことは、唯生きる、と云ふ事の中に、どんなに多くの謙譲な感謝が充ち溢れてゐた事だらう。」(p173-174)

「――この生活から希望を発見しよう。この人々の中から、人間の生活の悦びを見いださう。一身の名利、幸福、さう云ふものは捨て、人間と人間とが、摩擦し合つたり、助け合つたりする、このどん底の生活から、生活の悦びを発見しよう。何不自由のない、名誉もある、金もある、地位もある、さう云う風な人々の生活の中にも、悦びがあるだらう。悲しみもあるだらう。だが、どん底の、この人々の中に埋もれ隠れてゐる生活の悦び、それを発見しやう。それは仄かな悦びであるかも知れない。悲しみを帯びた悦びであるかも知れない。苦痛と背中合せの悦びであるかも知れない。だが、この人々が絶望してゐない、と云う事は、とりもなほさず、なんらかの悦びがあると云ふ事を、意味している。その悦び、悦びと云ふには、余りにも貧しい悦びであるかも知れないが、人間の生活を繋ぎとめて行く力、人間の生活を今日から明日へ推し進めていく力、それを発見しやう。――
――それは、是非発見しなければならない。何故かならば、それを発見する事に依つて、俺自身の悦びをも発見する事が出来るからだ――」(p202)


人はこれをどう読むだろうか。

社会主義の迷妄から目覚めて、個人のかけがえのなさ、市井の人々のささやかな幸せの大切さに気がついた良心的知識人の自省の弁?

あるいは、社会主義革命の理想をまったく失って、プロレタリアートの日常に塗り込められた階級矛盾の欺瞞の中でわずかなおこぼれにあずかろうとする敗北主義者の弁解の辞?

どちらをとるかは、読む人の立場によって異なるかもしれない。しかし、どちらであっても、これは驚くべき言葉ではないだろうか。おそるべき言葉だと行ってもいい。誉めているのではない。逆である。

一言でいえば、なんたる高慢さだろう。かれはそもそも、人々の生活に何を見て、社会主義運動をはじめたのだろう。かれが今ここでこういう言葉を発するとは、それまでかれは、人々の生活に悦びを見い出してなかったということか。とすれば、かれが抑圧された労働者を馬や牛に喩えたとき、悦びを持って生きるべき人間の屈辱的な姿として描いたのではなく、まさしく馬や牛と同様の何者かとして捉え、描いていたということにならないだろうか。しかも、これからかれらと同じ低みに降りて行って、そこで悦びを発見しようなどと語る。まるで異なる人種であるかのように、異なる階級であるかのように――なんたるエリート意識だろう!

かれにとっての他人とはいったい何であったのか。
マルクス主義は確かに人間を資本家=抑圧者とプロレタリアート=被抑圧者に分け、階級闘争の必然を説く。図式的に分類すればそうだ。だが、だからといって、人が資本家やプロレタリアートとして生まれてくるわけではない。人が坊主や教師として生まれてくるわけではないのと同様に。「人」は「人」である。後で坊主や教師になるのと違って、生まれた時と場所によって直ちに「資本家」や「プロレタリアート」という社会的属性が一人一人を襲い、矛盾に突き落とすとしても。

「経済学・哲学草稿」に明らかなように、青年マルクスにとっては自明のことであったこの観点――「人」は資本家やプロレタリアートである前に「人」として存在するということ――考えてみればあたり前のことであるが――は、どういうわけか葉山には欠けていたらしい。そしてたぶん、多くの「マルクス主義」者たちも。

つまり、人が一人の「人」としてそこに在ることの意義を、威力を、肯定を、かれはとらえていなかったのではないか。
だから「マルクス主義」から離れたとき――あれはあれで若者の熱狂を歌うには格好の入れ物ではあったのだが――革命を導く知的エリートとしての役割から降りたとき――そこで初めてのように、他人の悦びを「見い出さう」などと思い上がったことを言い出さざるをえなかったのではないか。

そうしてみれば、人が人としてそこに存在することの積極的な意味を自覚できない作家――もちろん作者自身の存在も含めてのことである――そうした作家の作品が、時局的な制約とはまったく別に、弱々しいものになってしまうのは、まったく当然のことといわざるをえない。

流旅の人々(1/2)


トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

Calendar

08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

+ アーカイブ
 

カテゴリー

読んでいる本

レビュー