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江戸川 乱歩

江戸川 乱歩
筑摩書房
ちくま日本文学全集019
p.476


ちくま日本文学全集を、一巻目からずっと読んでいるのだが、途中読んでいないものがあることに気がついた。
その一つがこれ。

江戸川乱歩は、中学生の頃にたくさん読んだ。
今回読み直してみて、二つ気がついたことがあった。

一つ目。
文章がわりと荒い。流行作家ということもあって、そんなには文章の推敲に神経質になっていないようだ。

二つ目。
明智小五郎といえば、もちろん探偵ものの代表的なヒーローで、本書に収められた「心理試験」にも登場する。
たが、この作品を読むかぎり、あまり印象がよろしくない。頭でっかちで、理路整然と敵を追い詰める冷血漢の側面が強く出て、なんとなく気味が悪い。
もちろん悪事を働いたほうが悪いので、探偵に罪はないのだが。

そういえば、むかしから明智小五郎には、不思議と存在感が感じられなと思っていたな。





橋ものがたり

藤沢 周平
新潮社
新潮文庫
p.389


橋をめぐって繰り広げられるさまざまな物語。

なかでも冒頭の「約束」が強く印象に残る。
二重三重の展開と美しいラストシーン。
いいものを読みました。




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霧の果て 神谷玄次郎捕物控

藤沢 周平
文藝春秋
文春文庫
p.345


久々の藤沢周平。

連作ものだが、それぞれの作にあまりひねりが感じられず、わりとあっさりと進み、あっさりと終わる。
舞台の背景となっている過去の謎も、拡がらないまま、あっというまに終息。




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マレー蘭印紀行

金子光晴
1940
中央公論社
中公文庫
p.184


作者45歳の時の作品。

その8年前、欧州から帰国の際に立ち寄ったマレー半島の風物。
次第に戦争の色合いが濃くなる中、海外植民地で働き暮らす日本人、中国人、土地の人々の模様。

70歳代半ばで書かれた東南アジア・欧州3部作に較べると、暗く重たい。




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Thinner

Stephen King
1984
Hodder & Stoughton
P341


呪いをかけられてだんだんやせ細っていく人の話という裏表紙の紹介を読んで、なんだかおもしろくなさそうだなと思って読んでみたら、謎解き、家族の危機、追い詰められた主人公の意外な反撃、危険な美少女の登場といったハラハラドキドキのストーリーに、アメリカ肥満社会への文明批評まで絡めてグイグイひきこまれ、途中でやめることができなくなってわずか3日で読んでしまった。

この小説でも、主人公の娘の存在が作品の中で重要な意味を持っている。

最後は衝撃的だ。

しかし、読者というものは、主人公に寄り添って読んでいくので、しらぬまに心情的に肩入れするものである。それでないと先に進まない。嫌な主人公にいつまでもつきあわなければならないとなったら、読者は読むのをやめてしまうだろう。

それだけにこういう結末でよかったのだろうかと思わないでもない。

おそらく、スティーブン・キングが持つ社会正義の感覚からすると、こういう結末でないと、バランスがとれないと感じたに違いない。
また、それはまっとうであると思う。社会的公正さに関するそういうまっとうな感覚があるからこそ、その作品が広く受け入れられているのだろう。

だが、なんだかね。

いろんな紆余曲折を得て、最後にこうなってみると、残ったのは、巨大な空白、無、というふうにかんじてしまう。
スティーブンキングの作品そのものが、巨大な無なのではないだろうか。

虚構作品というのはもともとそういうものなのだ、それで十分なのだという意見もあるかもしれない。

しかしほかの作家の作品で娯楽に徹したものでも、ここまであからさまに空白を感じたことがなかったように思えるのだが。
読んでいるあいだ夢中になっているだけに、なおさらそう感じるのだろうか。




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Duma Key

Stephen King
2008
Hodder & Stoughton
P691


691ページもあるので、なかなか大変かなと思ったが、いつのまにか半分、3分の2がすぎ、ひと月もたたないうちに読むことができた。

辞書を引くのが面倒くさかったので、一度も引かないまま進んだ。それでも読めたのだが、やっぱり、引いたほうがよかったかもしれない。意味がわからない部分があると、そこを含めて全体のがぼんやりしてしまう。

読んだときは面白かったけれども、もう印象が薄れてきてたのは、そのせいかもしれない。




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モーム71:芸術の意義

(大意)
もし芸術というものが道楽以上のものであって、ひとりよがりの場ではないとするならば、それは人格の形成を促し、正しい行動ができるように人を育てるものでなくてはならない。

こんな真面目な結論は、わたしはちっとも好きではないのだが、この点は認めざるを得ないと思う。

芸術の意義は、その成果で測られるべきであって、そういうものがない場合は、その芸術は無価値である。

ところで、不思議な事実があって、わたしにはうまく説明ができないので、ものごととはそういうものだと理解してもらうしかないのだが、芸術家がこのような成果を得ることができるのは、意図していない場合に限られる。教訓を与えようなどとまったく考えていないときほど効果的に説いているものである。

ミツバチはじぶんたちのためにせっせと蜜を集めているが、人々がそれを別のことに使うとは思ってもいないのである。
(サミングアップ 第76章)

If it is to be anything more than a self-indulgence and an occasion for self-complacency, it must strengthen your character and make it more fitted for right action. And little as I like the deduction, I cannot but accept it; and this is that the work of art must be judged by its fruits, and if these are not good it is valueless. It is an odd fact, which must be accepted as in the nature of things and for which I know no explanation, that the artist achieves this effect only when he does not intend it. His sermon is more efficacious if he has no notion that he is preaching one. The bee produces wax for her own purpose and is unaware that man will put it to diverse uses.
(The Summing Up, ch.76, p.299-300)





このエントリーのタグ: 引用句 Maugham The_Summing_Up

The Moon and Sixpence

Somerset Maugham
1919
Vintage Books
P215


サマセットモームといえば、代表作はやはり、Human Bondage(人間の絆)の4年後に発表された、本書The Moon and Sixpence(月と6ペンス)ということになるらしい。

高校生の頃、図書館に新潮社世界文学全集があって、その31巻がモームⅡ。
それを借りて、「ラムベスのライザ」「月と六ペンス」「お菓子と麦酒」「劇場」を読んだが、あまり面白くなかったということは覚えている。わざわざそんなことを覚えているぐらいだから、よほど退屈したに違いない。

ちなみに世界文学全集の30巻がモームⅠで、こちらには「人間の絆」「雨」「赤毛」が収められている。先に読んだⅡがあまりにおもしろくなかったので、Ⅰに手を出すのをやめたのだと思う。

ところが先日Human Bondageを読んでみたら、非常に良かった。Summing Upも面白かった。ここはやはり代表作を読まなければならないと思って、読んでみたら、なんのことはなかった。

わりとサクサク読めるが、それだけ。何の感興も起こらない。ああ、そうですか、という物語だった。

こういうストーリーは、もう映画とか小説とかテレビとかで十分見たり読んだりしているので、驚きがないのではなかろうか。発表された当初は、斬新な展開で世間を驚かしたのかもしれないが、いまでは、容易に先が想像できるあたりまえのストーリーになっているのではないか。

しかしそうなると、いまだに世間で代表作扱いされているのがよくわからない。
わたしにはわからない貴重な価値がこの作品に秘められているのだろうか。

それとも、たんに体質的に合わないということかいな。
それで昔も今もピンと来ないのかな。
もう少しほかの作品も読んでみた方が良いかもしれない。




このエントリーのタグ: Maugham

モーム70:一部の集団のための芸術は、たんなる遊び道具にすぎない。


(大意)
もし美が人生における最大の価値の一つであるとするならば、美の鑑賞能力が、特定の階級だけに属する特権であると考えることは難しい。選ばれた者だけが持つ感覚が、人間が生きていくうえで必要であるという理屈を押し通すのは無理がある。しかし美学者たちが主張しているのはそういうことである。

正直言って、わたしも若いころは愚かにも、芸術とは……人間の営為の頂点であり、人間の存在意義であり、選ばれた少数によって嘆賞されるべきだと考えて、一種特別な満足を味わったことがある。しかし、この考えはずっと気になっていた。

わたしは美がある特定の集団だけに属するとは信じられない。特殊な訓練を受けた者だけに意味を持つという主張も、そういった集団同様、まともに取り上げられるような話とは思えない。

芸術はすべての人々に喜びを与えるものであるかぎり偉大であり重大な意義を持つ。一部の集団のための芸術は、たんなる遊び道具にすぎない。
(サミングアップ 第76章)

If beauty is one of the great values of life, then it seems hard to believe that the aesthetic sense which enables men to appreciate it should be the privilege only of a class. It is not possible to maintain that a form of sensibility that is shared but by the elect can be a necessity of human life. Yet that is what the aesthetes claim. I must confess that in my foolish youth when I considered that art…… was the crown of human endeavour and the justification of man’s existence, it gave me a peculiar satisfaction to think that it could be appreciated only by the chosen few. But this notion has long struck in my gizzard. I cannot believe that beauty is the appanage of a set, and I am inclined to think that a manifestation of art that has a meaning only to persons who have undergone a peculiar training is as inconsiderable as the set to which it appeals. An art is only great and significant if it is one that all may enjoy. The art of a clique is but a plaything.
(The Summing Up, ch.76, p.298-299)





このエントリーのタグ: 引用句 Maugham The_Summing_Up

ライフシフト ~人生100年時代の人生戦略~

リンダ・グラットン/アドリュー・スコット
2016
池村千秋:訳
東洋経済新報社
p.414


「ライフシフト~人生100年時代の人生戦略~」というタイトルとサブタイトルはまったくそのとおりで、こういう本がついにベストセラーになったということ自体が、超高齢社会の進展を物語る。10年前に、本書の内容を書いても言っても、ほとんどの人は耳を傾けなかったのではないだろうか。ただ、同じような内容は、断片的には、高齢者に関する専門家のあいだでは、分科会や、ワークショップなどで語られてはいたのである。

言葉やビジョンは提示された。
しかし意識が変わり、行動が変わるためにはさらに長い時間かかる。
行政の制度は、その後追いとして、人々の意識や行動の変化に対応するために変えられるのが通常である。
そうすると、われわれの社会は間に合うのだろうか。

2025年問題のあとには、2040年問題がやってくる。
2040年問題とは、団塊の世代のジュニアが65歳になったとき、子供の数が少ないかれらの世代は、支える側が一層やせ細っており、その後10年間、おそらく少子高齢化の問題がもっとも先鋭化する。

2025年には間に合わない。
2040年にも間に合わない。
なぜならば、少子高齢化の問題は、1960年代からすでに叫ばれていたし、にもかかわらず、社会構造も、社会保障制度も、少子化対策も、結局のところ、トレンドは大きく変わっていないからだ。
人口問題にたいして政治は無力であるということを、過去50年間の日本の政治の結論としていいのではないか。

その意味で、このライフシフトの教訓は、第2章のジャックとジミーとジェーンの人生モデルをよく読んで、これからは、国に頼らず、独力で生きていく前提で生活設計を立てなければならない、それを肝に銘じなければならないということを、教えてくれるところにあるのでないか。

しかし時間がない人は、「序章 100年ライフ」の約20ページに必要なことがすべて書いてあるので、そこだけ読めばよい。17ページから38ページである。そのあとの架空の人物の話につきあう必要はない。プロのSF小説家でもないかぎり、未来の日常生活を生き生き描けるものではないから、延々と続くジミーやジェーンの話はかなり退屈である。




西ひがし

金子 光晴
1974
中央公論社
中公文庫
p274


三部作の最終巻。

妻美千代の不倫をきっかけにしたヨーロッパ行きではあるのだが、金子光晴はそうはいっても妻に縛られるつもりは毛頭ないようで、あちこちの街でよろよろしていて、商売女には手を出さなかったとどこかで書いているのだが、信用はまったくならない。妻に対しても男の手前勝手な倫理観を押し付けいるわけではぜんぜんなくて、むしろ逆のようですらあったらしい。

そういうふたりが貧窮の中でなんとか暮らし続け、ヨーロッパから帰るときはまた別々になり、日本に戻ってから一緒になってやっていくのであるが、ふたりの関係は当時の時代背景から見てもかなり奇妙に映ったのかもしれないが、こういうのは当事者しかわからないものなので、余計なお世話というものだろう。

金子光晴は女性に対する深い関心を終生持ち続けた作家で、響の強い独特な表現はかれの魅力の一つである。

彼女が見るということが、すでにおもわせぶりな表情をつくりだして、ただならぬおもいをあいての心に掻きたてるようであった。印度の女だけがもっている、つくられたものではない、生まれながらの情念の眼であった。こういう女のいる限り、男たちにとって、生きるということは、その女たちのゆく先の先までついていって見とどけることであった。
(西ひがし p.215)





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金子光晴20:印度の女


彼女が見るということが、すでにおもわせぶりな表情をつくりだして、ただならぬおもいをあいての心に掻きたてるようであった。印度の女だけがもっている、つくられたものではない、生まれながらの情念の眼であった。こういう女のいる限り、男たちにとって、生きるということは、その女たちのゆく先の先までついていって見とどけることであった。
(西ひがし p.215)





このエントリーのタグ: 引用句 金子光晴 西ひがし

金子光晴19:詩


……十年近く離れていた詩が、突然かえってきた。それほどまでに自分が他に取柄がない人間だと意識したときは、そのときがはじめてで、その時ほど深刻であったことはない。
(西ひがし p.164)





このエントリーのタグ: 引用句 金子光晴 西ひがし

金子光晴18:無題


なんと、この人生から、愛情が色褪せてしまったことか。僕がただ気付かなかったというだけかもしれないが、人々の愛情をあてに生きることが稀になったことか。愛情が恥辱となるときが、なんと近々と来ていることであろうか。
(西ひがし p.135)





このエントリーのタグ: 引用句 金子光晴 西ひがし

金子光晴17:芸術家のしごと


僕には、どうしても、芸術家のしごとが、制作のあいだのよろこびだけで元がとれているものとしか考えられない。
(西ひがし p.42)





このエントリーのタグ: 引用句 金子光晴 西ひがし

ねむれ巴里

金子 光晴
1973
中央公論社
中公文庫
p354


若い学生と駆け落ちした妻森三千代の気持ちを相手から引き離すべく、幼い子供を長崎の実家にあずけ、パリを目指す作者と妻。

「どくろ杯」では、関東大震災後の二人の出会いから上海、東南アジアでの道行と、妻が先にパリに向かうまでが描かれる。

本書はその続編。
作者もようやくパリにたどり着き、ふたりの暮らしが再びはじまる。
時代は1930年。
第二次世界大戦前の花の都パリである。

無一文の金子光晴は、絵描き、使い走りからゆすりたかりまで、あらゆることをやって生活の糧を得ながら、ここで約1年を暮らし、ベルギーに移ったのち、翌1931年にヨーロッパを離れることになる。

妻と関係がそのような複雑なものであったから、この間の作者の思いは、絶望とか嫉妬とか、断腸の思いとか、筆舌に尽くしがたいとか、そういう言葉では形容しきれない、余人にはうかがい知れないものであっただろう。

詩人として輝かしいスタートをきったものの、生活の上でも精神の上でも人間の最底辺を徘徊するこの期間は、詩も言葉も失われていた期間であったという。

40年という長い年月を経たからこそ、この地獄のような時間が、作者の中で客観となり、こうやって形になりえたにちがいない。この中で描かれるフランスや東南アジアで客死した多くの芸術家志望、ボヘンミアン、食い詰めものたちを思えば、そしてその後の世界大戦がもたらす惨禍を思えば、一種独特のこの傑作が世に現われたことは奇跡にちかい。

それを思うと、やはり芸術家というのは選ばれた存在で、その苦難の道は、モーツァルトの歌劇「魔笛」で主人公が試練の炎を通り抜けなければならないように、傑作を世に生み出すための運命のようにもおもえてくる。




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モーム69:芸術の価値


(大意)
芸術の価値は、信仰と同じく、その効果にある。たんに楽しいだけなら、どんなに精神的な楽しさであっても、さして重要とはいえない。その価値はいいところカキ12個とモンラッシェ(ブルゴーニュ産白ワインの銘柄)1杯程度である。

苦痛や悲しみを和らげてくれるのであれば、結構なことである。世界は逃れようのない悪に満ちており、人はときおり避難所に身を隠す必要がある。しかし悪から逃げるためではなく、悪と直面するための新たな力を獲得するものでなければならない。

芸術は、もしそれが人生の大きな価値のひとつであるとするならば、謙遜と、寛容と、知恵と、雅量を教えるものでなければならない。芸術の価値は美にではなく、正しい行動にある。
(サミングアップ 第76章)

The value of art, like the value of the Mystic Way, lies in its effects. If it can only give pleasure, however spiritual that pleasure may be, it is of no great consequence, or at least of no more consequence than a dozen oysters and a pint of Montrachet. If it is a solace, that is well enough; the world is full of inevitable evils and it is good that man should have some hermitage to which from time to time he may withdraw himself; but not to escape them, rather to gather fresh strength to face them. for art, if it is to be reckoned as one of the great value of life, must teach men humility, tolerance, wisdom and magnanimity. The value of art is not beauty, but right action.
(The Summing Up, ch.76, p.298)




このエントリーのタグ: 引用句 Maugham The_Summing_Up

モーム68:なにかを達成するためには、自分のなにかを制限することを学ばなければならない。(ゲーテの言葉)


(大意)
なにかを達成するためには、自分のなにかを制限することを学ばなければならないとゲーテはいっていなかっただろうか?
(サミングアップ 第73章)

But did he not say that he who would accomplish anything must learn to limit himself?
(The Summing Up, ch.73, p.287)




このエントリーのタグ: 引用句 Maugham The_Summing_Up

モーム67:老年時代にはもっと時間がある


(大意)
矛盾して聞こえるかもしれないが、老年時代にはこれまで以上に時間がある。

わたし若いころ、大カトーが80歳になってギリシャ語を習いはじめたとプルタークが英雄伝で書いているのを読んで、不思議に思ったが、いまならそうは思わない。

老年時代は、若者ならばそれに要する膨大な時間を考えて尻込みするようなことでも、取り組むことができるものなのである。
(サミングアップ 第73章)

Paradoxical as it may sound it has more time. When I was young I was amazed at Plutarch’s statement that the elder Cato began at the age of eighty to learn Greek. I am amazed no longer. Old age is ready to undertake tasks that youth shirked because they would take too long.
(The Summing Up, ch.73, p.286)




このエントリーのタグ: 引用句 Maugham The_Summing_Up

金子光晴16:フランス人とイギリス人


……それに、パリのような都会の中心でも、いなかでも、コーヒーの味とパンの味が変わらないのもフランスである。
駅の外で夜なかでも濃いコーヒーが待っててくれるという仕組は、とかく旅に出るとうら恋しい彼らの願望がつくり出したもので、周りの条件が一応、我慢できるようになると、彼らはまた、どんな辺土にでも、そのまま居ついて、どこの生活にも融け込んでしまうという一面もあった。都会といなかとの生活程度の段落など物のかずではなく、口腹の慾と、現地人でもいい、セックスが満足させられるあてがあれば、世界のはてのどこにでも生きてゆくことができる人間であった。それにくらべてイギリス人の植民地に出張した人たちは、たいてい独身で、三年でも五年でも、八年でも傲岸にかまえて、現地人を尻目で眺め、ウイスキーで性慾などをおさえつけて支配者の姿勢をくずさず生きてゆくことを真骨頂としていた。イギリス人あいだではゴーギャンのような人間はめったに居ない。
(ねむれ巴里 p.241)




金子光晴15:女のからだとこころ


女は元来一人のこらず娼婦で、世の夫婦という関係も、女にとっては活計のたのみとするあいてが一人だというだけのことである。それでも、男のこころをやすめるところは女のからだとこころより他にない。
(ねむれ巴里 p.226)




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金子光晴14:高村光太郎とエミール・ヴェルアラン


高村光太郎のエミール・ヴェルアランの理解には、古フランドルの黒い太陽と、途上にあらわれた聖ジョルジュの、新しいブリキ板のめくるめきを通りぬけていない物足らなさがあり、そのことをちょっと話したことがあるが、彼には彼の柱組みができていて丈の合わないよそものを受けとってみても、おく場所がなかったらしい。二度の古ブラバン滞在で僕は、やっとベルギーの人間感覚にふれることができたような気がする。僕の青年時代に、このヴェルアランほど世界中の詩人たちから問題にされた人はいなかった。与謝野寛は訳詩集『リラの花』のなかで、ボードレールや、ヴェルレーヌの渓流を下りてきた水が、ああ、遂にヴェルアラン、大海のようなヴェルアランまで到着したといったような表現で、讃嘆し、双手をあげて、彼を迎えた。落日の空のような華やかなP・P・ルーベンスと、イザベラ・ブラン乃至ヘレン・フールマンのゆたかな肉体が、幻の大艦隊のようにしずかに背後をうごいている人と血の黄金のエクスターズの光景をみながらでなければ、フランドルのある盛夏が理解できないとしても、それは、彼の不勉強でも、才能の不足でもない。夏に弱い彼の体質の、倫理性より先に体質的な拒否があったのだろう。
(ねむれ巴里 p.203-204)





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金子光晴13:フェリシアン・ロップス


古い版画のなかで僕は、ボードレールと親交のあったベルギーの画家、フェリシアン・ロップスの古い版画をさがしだした。「アブサンをのむ女」は誰でも知っているだろうが、ヨーロッパ十九世紀民衆風俗のなかにある、解放の精神、かんぬきがはずれた、春の門がひらけ、自然も、人間も、足音あらく地上に氾濫するとどろきの壮大なながめを是非見てほしい、僕のその感動はいまも変わらない。彼のグロテスクな春画(エッチング)よりも、僕は、この宇宙の鼓動に人間の正統をみるものである。現代のエロティシズムは、所謂エロティコンで、光をはねかえすドーフィンの肌の弾みをもっていない。ロップスの「春」は、ゼローム・ボッシュの妖精趣味に、テニエルスの「王は飲む」の楽天性と、近代世界の痛みを加えて、ミックスした味をもっているところが、争われないフランドル風で、イギリスの天使とも、スペインの悪魔ともちがった眩暈と豊饒とユーモアをもっている。僕のその後のしごとの遠くの根も、どうやらそんなところで水あげをしていたらしい。
(ねむれ巴里 p.202-203)




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金子光晴12:枯葉


ルクサンブール公園の鉄柵をアレジアに下っていく大通りの左側に、じつにみごとな落葉の吹溜まりがある。並樹の枯葉は悉く、淡いレモン黄になり、日本のような紅紫とりまぜたもみじの絢爛たる金襖もようとはまったく趣を異にしている。レモン黄のうず高い褥のうえで、秋ももうよほど長けて力の衰えをみせはじめた日だまりにふっかりと身を埋めてまどろむより快い眠りの床はほかにありそうもない。ふりつもった葉は、風とも言えないかすかな気配にも身じろぎ、そのたびに、耳にも入りがたい弦の、歯ぎしりに似た歔欷の声をあげて一ひら一ひら身じたくのできたものから、立ちあがって誘われるがまま冬の近い、さむざむとした舗道の上を、ゆくえもしらず旅立つのであった。
(ねむれ巴里 p.194-195)





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モーム66:老年時代


(大意)
完全な人生、その完全なパターンには、若い時代や成熟の時代とともに老年時代が必要である。

朝の美しさ、日中の輝かしさは素晴らしいものである。だからといって、静かな夕方を追い出そうとカーテンを閉めて照明を煌々とつけるのは、愚かな人間のやることである。

老年時代にはそれ自身の喜びがある。若者時代の喜びとはちがうが、それに劣るものではない。
(サミングアップ 第73章)

For the complete life, the perfect pattern, includes old age as well as youth and maturity. The beauty of the morning and the radiance of noon are good, but it would be a very silly person who drew the curtains and turn on the right in order to shut out the tranquility of the evening. Old age has its pleasures, which, though different, are not less than the pleasures of youth.
(The Summing Up, ch.73, p.285)




このエントリーのタグ: 引用句 Maugham The_Summing_Up

金子光晴11:女の横広がりの共通点


どこのくに、どこの人種でも、女には女の横ひろがりの共通点があり、端布や、安うり商品の前では、人種を越えた酷似した顔つきで、我勝ちに人を押しわけて、がつがつとむさぼりつく、おなじあさましさの様相をあらわす。そして、じぶんでさがしだし、選りだした品を抱いたまま、もはやそれを元に戻すことができなくなり、みすみす欲望に敗けて、注意ぶかくあるべきことも忘れ、人ごみにまぎれて立去ろうとする、そんな情景を僕は、日本でもみなれていたし、上海の永安公司、新新公司、シンガポールの広場や、その他爪哇のバッサルでも例外なく、女ごころのやさしさの裏返しとして、心密かに彼女たちの成功に手をうち、喝采して顛末をみてきたものだ。
(ねむれ巴里 p.188-189)





このエントリーのタグ: 引用句 金子光晴 ねむれ巴里

金子光晴10:露店通りの果て


このデパートの外通りは、ネクタイとかシャツ類などの日用品から、擬いの宝石指環、琺瑯の鍋や首飾りまで、手当り次第なものが半値以下でおが屑のなかにならべてある露店通りであり、その果ての館に、五フラン女郎が、裸で、汚れタオル一枚ずつもって、十人ぐらいうようよとしているのが外からよくみえるようになっていた。どの女も骨骼が崩れ、四角い尻の下から飴ねじのようなねじれた足がついて、赤いすり切れたような皮膚が、女の人生の荒廃のはてのそこらに滞った空気まで、粒立ちそそくれ立たせたうえに、熱ばみただれさせ、あたりをどんよりと濁ったものにしていた。
(ねむれ巴里 p.188)





このエントリーのタグ: 引用句 金子光晴 ねむれ巴里

モーム65:1920年代


(大意)
わたしが青年時代を過ごした1920年代は、中壮年のための世界だった。若さからはできるだけ早く抜け出し、成熟すべきだと考えられていた。
(サミングアップ 第73章)

The world of my twenties was a middle-aged world, and youth was something to be got through as quickly as possible so that maturity might be reached.
(The Summing Up, ch.73, p.282)





このエントリーのタグ: 引用句 Maugham The_Summing_Up

金子光晴09:女持主


その女持主は、ペルシャ人で、東洋風な、牛乳の入ったうつくしい肌色をもった、派手な顔立ちの女だった。じぶんのうつくしさに自信のある女は、やさしくていいものだ。
(ねむれ巴里 p.146)




このエントリーのタグ: 引用句 金子光晴 ねむれ巴里

金子光晴08:パリ


いや、そういう馴々しさでひきつけるのがパリのかまととの手練女のような媚かもしれない。この街は、ふしぎな街で、くらいモスコウから、霧のニコスたち(スコットランド人)の住む国から、アビシニアから、テヘランから、あつまってくる若者たちを囚虜にし、その若者たちの老年になる時まで、おもいでで心をうずかせつづけるながい歴史をもっている、すこしおもいあがった、すこし蓮っ葉な、でも、はなやかでいい香いのする薔薇の肌の、いつも小声で鼻唄をうたっている、かあいいおしゃまな町娘とくらしているような、それで、月日もうかうかと、浮足立ってしまいそうなところである。正直言って、僕は、ここでうまれて、ここで死んで満足しきっている人間たちの仲間にはなりたくない。金でふちとった調度類と、天使と雲のなかの裸女が寝ている画の画いてある、程のよい、オルゴールや、時計のなかであそんでいた、髪の毛に天花粉を塗った、腰から下に蝙蝠傘のようにスカートをひらいた貴婦人たちの格好は、昔、花屋敷のあやつり人形としかおもわれない。パリの人たちは、いつになっても、コーヒーで黒いうんこをしながら、すこし汚れのういた大きな鉢のなかの金魚のようにひらひら生きているふしぎな生き物である。長夜の夢からまださめきらないのだ。第一あのP音の多い、人を茶にしたとぼけたフランス語を使いながら、あけくれ女の尻から眼をはなさない男たちや、男の眼くすぐられている自覚なしではいられない女たちが、ふわりふわりとただよっているこのフランスの都は、立止まって考えるといらいらする町だ。頭を冷やしてながめれば、この土地は、どっちをむいても、むごい計算づくめなのだ。リベルテも、エガリテも、みんなくわせもので、日々に、月々に、世界のおのぼりさんをあつめる新しい手品に捺す古スタンプのようなものだ。騙されているのは、フランス人じしんもおなしことで、だましている張本は、トゥル・エッフェルや、シャンゼリゼや、サクレ・キュールや、セーヌ河で、そんな二束三文な玩具を、観光客は、目から心にしまって、じぶんもいっしょの世界に生きている一人だったと安心するのである。
(ねむれ巴里 p.69-70)





このエントリーのタグ: 引用句 金子光晴 ねむれ巴里

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